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2017.08.24 Thursday

しろさんとちびねこ / エリシャ・クーパー

エリシャ・クーパー
あすなろ書房
(2017-04-20)

 

『しろさんとちびねこ』

オリジナル・・・『BIG CAT、little cat』(2017年)

日本語訳 ・・・ 椎名かおる(Kaoru Shina)

日本語版装丁・・・ 城所潤+岡本三恵(ジュン・キドコロ・デザイン / Jun Kidokoro Design)

(オリジナルの洋書は日本語版よりも縦横それぞれ約2兮腓いサイズ。)

 

エリシャ・クーパー(Elisha Cooper, 1971ー、アメリカ・コネチカット州ニューヘイブン生まれ)

作家・イラストレーター。

イェール大学ではラグビー選手として過ごし、雑誌『ニューヨーカー』のアートディレクターを経て、『A Year In New York』(1995年)で作家としてデビュー。

『Dance!』(2001年)は NewYork Times の「Ten Best Illstrated」 に選ばれる。

 

最新作は『falling: A DAUGTER, A FATHER, AND JOURNEY BACK』(2017年)。『 crawling: FATHER'S FIRST YEAR』(2006年)に続くエッセイ集。この2冊では家族のことを中心に日常の風景が綴られており、娘のZoëの腎臓に癌が見つかったことも書かれている。

 

現在 日本語訳されている著作は他に3冊。

『ヘンリー』(新潮社/2000年、『henry』1999年)

『おやすみをいうまえに』(バベルプレス/2011年、『A GOOD NIGHT WALK』2005年)

『うみべのいえの犬 ホーマー』(徳間書店/2013年、『Homer』2012年)

 

 

Elisha Cooper : HP elishacooper official website

 

 

(*データは2017年8月現在のもの。以下も敬称略とさせて頂きます*)

 

 

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簡単にストーリーを。

ある日、ある家に飼われている1匹の白猫のところに新たに黒い子猫がやって来る。白猫は黒猫に生活の作法の色々を教え、2匹は仲良く楽しく過ごす。

やがて年老いた白猫は去り逝き、黒猫は残される。

そしてある日、1匹となった黒猫のところに白い子猫がやって来る。黒猫は白猫に生活の作法の色々を教え、2匹は仲良く楽しく過ごしていく・・・。

 

 

・・・・・・

 

本編の感想の前に少し余談。

初夏の頃、ふらり立ち寄った書店の新刊紹介で見かけた『しろさんとちびねこ』。作者と作品についての情報は全くなく、表紙の<外国の絵本>っぽい雰囲気と、何と言っても白猫の優しい表情に心ひかれて手にとった。

柔らかなタッチの絵とシンプルなデザイン、解りやすいストーリー構成。特別に強い主張を受ける感じではない…筈なのに。

何故か深く作者の個性を感じた。何というか…「ひっかかり」を感じた、と言うか。

私にしては珍しく、絵本で初見の作品を即買いした。

 

そしてそれから。読み重ねる愉しみをくれる作者(作品群)に出会えた感触を得ている。日本未刊行の作品群をまだ全部ちゃんと読めておらず&英語がよく解らずで感想が定まっていないのだけれど…<面白い>。

 

エリシャ・クーパー。私が知らなかっただけで著作はかなり多い。絵本と文章がメインの作品とあり、内容としては小さな子供と10代向けのお話やエッセイ、大人向けのエッセイ、など。

一見すると、穏やかで柔らかくて暖かくてごく普通の<絵本>らしい雰囲気なのだけれど、作者に独自の個性と身体性があり、読み手に<現在 いま>を問いかけてくる。

私個人の感想なのだけれど何となくジョン・グリーン(Jhon Green)を知った時の感触と似ていて、おそらくクーパーも<新しい書き手>なのではないかと思う。

んー、もっと他の作品も日本語訳してくれないかなぁ。。。

 

他の作品についても考察してみたいのだけれど、焦らずゆっくりと。今回はこの作品について。

 

さて。

 

 

・・・・・・

 

お話に入る前にまずは表紙。

『しろさんとちびねこ』のオリジナルタイトルは『BIG CAT, little cat』。

ごく普通に日本語にするならば、『大きいねこ、小さいねこ』という感じになるのだろうけれど、「BIG CAT」という大文字と「 little cat 」という小文字で書き分けられているというところに遊び心を感じる。(色も使い分けられていて、BIG CATは濃い青、 little catは薄い青。)

そして、2つ(2匹?)  の間にあるのが「〜と〜」という並列の意味を持つ「&」ではなく「 , 」であるというところに、作者の個性と作品に込められたメッセージを感じる。おそらく作者は2匹の猫のそれぞれを「命」として「個」として、あくまでも別個の存在としてフラットに見つめているのだろう。

 

そして、表表紙と裏表紙で大きい猫と小さい猫の色は入れ替わっている。この演出は見た目に美しいだけでなく、時が流れ命は繋がっていくということを解りやすく伝えてくれている。

 

 

・・・・・・

 

クーパーの作品は絵もお話もスケッチのようなさり気ない雰囲気なのだけれど、計算されたデザイン性が確かにある。

<デザイン>って、構図がキマッテいるとか造形が美しいとか色彩が素晴らしいとか…のビジュアル的な要素のことだけではないのだな、なんてクーパーの作品を読みながら改めて考えはじめている。(まだその途中。)

デザイン、というとビジュアル的な美しさの追及にばかり重点が置かれがちだけれど、それはただ単にビジュアルだから目に見えて解りやすいだけのことで、<それがあるべき姿>をトータルでイメージ・設計すること、をデザインと言うのだろうなぁ。。。

 

ただ美しいだけではなく、本当に美しいものとはきっと意識的にも無意識的にも<デザイン>が成されていて、その<あるべき姿>であるという<しっくり感>の様なものが生活や動作をラクにしたり人を感動させたりするのだと思う。

 

と同時に、だからこそ。その<あるべき姿>に<あるべきでない何か>をひそませることもまたデザインで…。

クーパーは<それ>を仕掛けることを意識している作家だと思う。あからさまにではなく、解る人には解るように、届けたい人に届くように…。私はそういうところに惹かれたのだろうな。

あるべきか、あるべきでないか。読み手の心のうちに <在る> というその一線が、<現在 いま>というこの一瞬が、浮かび上がってくる。

 

 

・・・・・・

 

では、お話のなかへ。

作中のものは全て濃紺に近い黒色の太く滑らかなラインで描かれ、写実的なタッチではない。猫たちと彼らが関わるモノ以外に描き込みはなく、背景の余白が大きく広がっている。

猫たちが日常を過ごす時の背景はごくシンプルな真っ白。なので2匹がぴったりと体を寄せてくつろぐシーン(作中3カット)の背景が黄色で表されているということはそのペエジ(ひととき)が特別であるということを自然と伝えてくる。ほわぁんと淡く、2つの命を包んで守るかのような優しい黄色。

 

そして原文では2匹それぞれを示す言葉が時が経つにつれて変わってくるのが面白い。

しろさんは最初は「a cat」なのだけれど、新しい猫が来てから、the cat→big cat→ the older cat と変わっていく。

ちびねこも最初は「a new cat」なのだけれど、2匹で暮らすようになってから、the new cat→ bigger cat→ the cat→ big cat と変わっていく。

1つの命が、何かとの関係によって成長し、時を経ることによって老いていき、そして新しい命へと託されてゆく、ということが猫を表す言葉の変化で巧く表現されている。

 

 

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しろさんがいなくなってからのちびねこを描いた2つのシーンが興味深い。この2シーンがおそらくこの作品のハイライトで私がこの本を購入した理由でありクーパーに興味をもったきっかけ。

 

この2シーンの背景にはグレーが使われている。白でもなく黄色でもない、明度と彩度の低い色であるということから、日常(白)や幸せ(黄色)をかき消すような暗い状況にいることが伝わってくる。

それを伝える文章。(P.22ー23、P24ー25)

 

かなしくて、

たまりません。

 

And that was hard.

For everyone.

 

 

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「And that was hard. For everyone.」。ただそのままに日本語とするならば、「そして そのことはつらかった。全てのもの達にとって。」とでもなるのだろうか。

 

この「And」(P.22)はおそらく意味をもって選ばれて配置されている。前のシーンからの流れの先に効果的に使われているのだ。(P.20 - P21)

 

なんねんも なんねんも、

2ひきは ずっと いっしょでした。

しろさんが いなくなるまでは……。

あるひ、しろさんは いなくなって、

もどっては きませんでした。

 

Years went byー

and more yeras, tooー

and every day the cats

were together.

until the older cat got older

and one day he had to go ...

and he didn't come back.

 

「and」で文章が繋がれることにより、日常(生活)という時が常に次へ次へ、先へ先へと進んで流れている様子が伝わってくる。

だけれど。しろさん(the older cat)が逝ってそしてもどってこなかったということは、残されたもの達にとって、そこから次や先へと簡単に行けるような出来事ではなかったのだ。

だからきっとこの次に続く文章は「and that was hard.」とは出来ず、「And that was hard.」という、今までと同じだけれど何かが違う「And / 繫がり」となったのだろう。

 

この「And」の「A」という大文字は、時を止めることは出来ないということと、時を断ち切るかのような出来事というものがあるということをさり気なく、けれどはっきりと表している。

そして、どんな何かが起こっても、時は and and・・・と進んでいくということをそのままに受け入れて生きて行こうとする作者の葛藤と心の強さも表れている気がする。

and で繋がってゆく時、とは別の言葉では<人生>と言えるかもしれない。

 

 

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「かなしくて」の次のペエジにある「たまりません。/ for everyone.」。

この1文があてがわれたシーン(P24ー25)は、初めてこの作品を本屋で立ち読んだ時は意味が解らず、そしてオリジナルを取り寄せた今も必ずここでペエジをめくる手が止まり気持ちが乱れる。

なぜ「for everyone」という言葉がどうしてこんなにも、皆とは離れた全くの<孤独>として私に響いてくるのだろう。

それはきっと、絵による絶妙な演出だ。

 

突然、今まで登場していなかった人間たちがシルエットとして出されることにより、2匹の猫たちは多くの存在に守られ愛されていたことや、残された猫も周りに誰かがいてくれるのならば孤独になることもないのだということが察せられる。

と同時に、顔を向け手をさしのべる人間たち(他者)のシルエットと猫の間にあるぽっかりと浮かんだ距離から、幸せな日常においては誰もが自分の好きなものしか目に入らないということや、困った時になってやっと周囲の暖かさに気づくということや、自分だけが哀しいのではないということなどもふいに見えてきて、「for everyone」という言葉のなかに「哀しい気持ちはみんな一緒だよ」というよりも「みんながそれぞれに哀しいんだよ」というメッセージを感じてしまう。

言葉と絵のギャップが心にひっかかり、見つからない答えをみつけようとして気持ちが乱されるのかもしれない。

 

日常や幸せと違って、なぜ哀しみは分かち合うことのできない、その人だけのものなのだろうか。

<時>とは一体何なのだろうか。。。

 

 

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そんなことに思いをめぐらさせてペエジを止めてみても、時が進むようにお話はまだ続いていて…突然、ごく自然と「ある日 /the day」がやってくる。「新しい猫」がやって来るのだ。

そして、新しい猫が呼び入れた新しくて懐かしい日々がはじまり…その様子を眺めていると、見つからない答えなんて見つからなくて良いのだと気づく。

 

この本の表紙の裏、見返し部分には薄いブルーの背景に水玉が綺麗に並んでいる。色は白と淡いブルーと濃いブルーで、大きさは大中小がバラバラと。可愛いデザインだなぁと思う。

それは何となく、遥か彼方からみた命の縮図のようで、宇宙の闇に1つ1つ まぁるく漂うその姿を、愛おしいなぁと思う。

 

 

 

 

 

「向こうは、とても綺麗だ。」/(Tabula Rasa 2012.12.27)
ぼくは願っている。 / (Tabula Rasa 2013.03.11)

さよならを待つふたりのために / ジョン・グリーン(Tabula Rasa 2014.10.17)
i will live. / with or without you / (Tabuka Rasa 2015.03.11) 

 

 

        
2017.05.12 Friday

宮沢賢治の鳥 / 国松俊英:舘野鴻

 

 

文…国松 俊英(くにまつ としひで Toshihide Kunimatsu、滋賀県生まれ)

童話、児童文学のほかにノンフィクション作品も執筆。宮沢賢治や鳥に関する研究を長く続けその著作も多数。

日本児童文学者協会、宮沢賢治学会、日本野鳥の会会員。

 

画…舘野 鴻 (たての ひろし Hiroshi Tateno、神奈川県生まれ)

昆虫をメインモチーフとした絵本のほかに生物画・装画も手掛ける。

 

 

宮沢 賢治 (みやざわ けんじ Kenji Miyazawa、1896−1933、岩手県生まれ)

 

(*データは2017年5月現在のもの。以下も敬称略とさせて頂きます*)

 

 

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宮沢賢治の鳥。

宮沢賢治<と>鳥 ではなく、宮沢賢治<の>鳥。

他の誰でもない<宮沢賢治>の、他の何ものでもない<鳥>の、本。

 

宮沢賢治の創作物には鳥がたくさん登場をするが、その数は「数えると70種類以上になる。」(P.3) らしい。この本においては賢治作品からの引用と共に10種の鳥がピックアップされ、凛と繊細な描写と雄大な構図による絵と、幅広く確かな知識による解説と興味深い考察(発見)の文章が添えられている。

 

質感というよりも質量が独特な一冊で、何となく本と自分との間合いのようなものが上手くとれず、さして分厚い本でもないのに時間を置きながら日にちをかけてゆっくりと読むこととなった。

それが良かったのかもしれない。手持ちの賢治作品群や絵本化されているもの、鳥類の図鑑、などを開きながらの、のんびり楽しい読書となった。

 

ようやっと読み終わり、この本の質量の独特感の理由を考えてふと思い当たったのは、この本が<絵>で描かれていて<宮沢賢治>に関する内容だから、ではないかということ。

 

 

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この本の鳥や風景が絵ではなく写真だったならば印象はきっと全く違った筈だ。宮沢賢治研究のビジュアル本として普通にみたと思う。絵だから、何だか不思議なのだ。

本物<みたい>だ、と感じる。羽の模様やその流れ、目玉の粘度と純度、くちばしの光沢、木々の肌や葉、星々の光り、雪の重み、空と雲の色と広がり…。

本物、みたい、だと思う。美しくて不思議で少し怖くなってくる。私が見ているこの鳥と風景は本物みたいな<絵>であってどこにも実在はしないのだ。在るとするならば… そこは  イーハトーヴ  だ。

 

それぞれの鳥についての解説と考察に「賢治がいた時代の日本」(p.6)と<宮沢賢治>を発見させられる。賢治がハチドリを知った経緯、モズとムクドリの違い、『よだかの星』の作品背景…。その事実にいきつくまでの推理と検証の経緯はスリリングで面白く、改めて賢治がいた時代とその空間を想像してみたりした。

おそらく、それ等のことを知らずとも解らずとも賢治の作品群の素晴らしさや面白さが損なわれたり激変をしたりする訳ではない。けれど、それを知ろう解ろうというその思いと行為が、作品の世界を広げ、深め、読み手を新たなる境地へと向かわせるのではないだろうか。賢治が創り出した空間… イーハトーヴへと。

 

 

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表紙も含めてどのペエジもそれぞれにとても好きなのだけれど、白鳥のペエジは開く度に息を飲み、わくわくとした緊張感を覚える。まるで白鳥の一群のなかで渡り鳥として飛んでいるかのような目線からの風景に包まれるからだ。そして、賢治の「白い鳥」の一節のひんやりとした喪失感と遠く広がる朝焼けの空の鮮やかさに何とも言えない気持ちになる。

 

ラストペエジに描かれた、たき火のそばで新聞紙を掛けて横になる賢治の絵は、誰も見たことのない<絵>で愉快な気持ちになる。そして最後に記された文章の「たくさんの童話や詩は、そんな日々に、草原を吹く風や夜空にかがやく星の光からもらったものだ。」(P.35)という箇所はおそらく賢治の「これらのわたくしのおはなしは、みんな林や野はらや鉄道線路やらで、虹や月あかりからもらってきたのです。」(『注文の多い料理店・序』)という言葉に呼応してのものだろう。

 

この、賢治の生前刊行唯一の童話集『注文の多い料理店』の序文はこうしてまとめて終えられている。

 

「けれども、わたくしは、これらのちひさなものがたりの幾きれかが、おしまひ、あなたのすきとほつたほんたうのたべものになることを、どんなにねがふかわかりません。」(大正十二年十二月二十日)

 

(『新修 宮沢賢治全集 第十三巻』筑摩書房、1980年初版。1991年第12版参照)

 

 

透き通った、本当の、食べ物。

美しく力強いイメージを感じるが、解るようでどこかよく解らない。賢治が思い描いたその「すきとほつたほんたうのたべもの」とは一体どのようなものやことを示すのだろう。

それが知りたくて解りたくて、私たちは作品を読み返し、賢治の足取りを追ってみる。例えばこの本で、羽の1本1本、葉の1枚1枚が描かれたように、文章の1語1語、事象の1つ1つが熟考されたように。

そして、賢治が何かを知りたくて解りたくて、野山を歩き、空を見上げ、音楽を奏で、文章を書いたように。

 

源流を目指すならば、流れをたどりながらもその流れに背いて進んで行かなければならない。そこで生じるエネルギーの濃さが、この本と、そして宮沢賢治の作品群の質量の独特さの所以ではないだろうか。生まれ出るそのエネルギーとはきっと、自らの身体を使い未知へと分け入ってゆく時の真空な至福感、だ。

 

 

 

 

しでむし:ぎふちょう / 舘野鴻(Tabula Rasa 2013.10.01)

つちはんみょう / 舘野鴻 (Tabula Rasa 2016.06.05)    

 

舘野鴻 画展 / 森岡書店 : 銀座(Tabula Rasa 2017.01.28)
 

 

 

        
2017.04.08 Saturday

こうまくん / きくち ちき

きくち ちき
大日本図書
(2016-03)

 

デザイン・・・大島依提亜(Idea Oshima)

 

きくち ちき(菊池知己  Chiki Kikuchi、1975−、北海道生まれ)

『しろねこくろねこ』(学研、2013年)でブラティスラヴァ世界絵本原画展の金のりんご賞受賞(Biennial of Illustrations Bratislava:Golden Apples)。

文章は他の作家でイラストのみのコラボレイト作品もある。

 

(*データは2017年4月現在のもの。以下も敬称略とさせて頂きます*)

 

 

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初めて読んだ作品が何であったかは忘れてしまったのだけど、手に取ったきっかけは今でもはっきり覚えている。

書店の棚に並ぶたくさんの絵本たちの背表紙のなかに偶然みかけた作者名「きくち ちき」。

文字の並びと音の響きが新鮮で書棚からその本を抜き取ったのだった。

本のタイトルや内容よりもまず作者の名前(文字)に記号的な興味をもって読みはじめるというのもちょっと変なのだけれど、何かに出会うきっかけなんて本当にささいな引っ掛かりやふとした偶然なのだなぁと思う。

以来、きくち作品は愉しく読み重ねている。

で。暖かくなって、花は咲き緑の繁るこれからの季節に読みたくなるのは『こうまくん』。

 

 

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この絵本にストーリーは特にない。こうまくんが表紙からラストペエジまでともかく走る。走り続ける。勢い余って途中ではもう転がりながら、走って走って走り抜けて行く。

ただそれだけの姿が何とも気持ち良い。

こうまくんが走る姿はともかく楽しそうで、あーいいなぁとこの絵本を読む度にいつも思う。そして何だか自分もともかく走りたくなってくる。

 

この本は造りが潔く元気で<こうまくん>っぽい。

まず、本の形。

ちょっと縦長で、そのシュッとした感じが馬の身体のラインや動きをイメージさせる。

 

そして紙の質。

サラッとつやつやとして滑りと手触りがよく、そしてかなり厚めで張りがある。

これがもしも質感をじっくり楽しむような手触りで張り感の柔らかい紙だったとしたら、この作品の印象はまた違ってくるのではないだろうか。

このサラつやっとした手触りと手応えのある張り感が読み手の気持ちを自然と駆り立てて、ペエジを次へ次へと、こうまくんの走るスピードに引き込ませてめくらせているのではないかと思う。

 

それから、文字の色と大きさ。

黒々とした平仮名がペエジに大きく配置され、それが こうまくんの逞しさと無垢さをシンプルに伝えてきている。

そして文字のサイズを良く見ると、ラストペエジに向かう前の3カットにあてられた文字が大きくなっていることがわかる。

このことによって、こうまくんの興奮がもう自分でも抑えきれないくらいに全身から溢れていることが力強く伝わってきて、読んでいて本当にただただ気持ち良い。

 

 

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繰り返される こうまくんの「 ぼく はしってるの 」という言葉は正直でとても可愛らしい。誰かの存在を求めつつも全てから放たれる快感に満ち溢れているから。

そういう こうまくんにとって、「見守る」や「応援する」「寄り添う」というような温度や湿度のあるスタンスではなく…、もちろんまずはそうでありたいけれどそれ以上に何というか…表紙に描かれているみんなみたいに「笑顔で放っておく」スタンスでありたいなぁと思う。

その人が子供であっても大人であっても、<夢中な人>にはもっと軽くもっと速く、どこまでも自由でいて欲しいから。

 

 

 

        
2017.03.30 Thursday

THE HIGHWAYMAN/ Alfred Noyes:Charles Keeping

Alfred Noyes
Oxford University Press
(1981-06-11)

 

『THE HIGHWAYMAN』(1981年)

ケイト・グリーナウェイ賞受賞。(Kate Greenaway Medal、1981年)

 

2013年に表紙の新しいNewEditionが発刊されたのだがそれについては未読。

私の手元には1995年版と2001年版のハードカバーがあり触った感触からして紙質が変えられていて、私は1995年版の色のグラデーション具合が好みかな。この作品もいつか原画が見てみたい。

 

<The Highwayman>は日本語にすると<追剥>(おいはぎ)となるらしい。追剥ぎとは、道すがらの人の物品を略奪する盗人のことをいう。

 

「The Highwayman」(1906年) はアルフレッド・ノイズによって書かれたバラッド形式の詩で、詩集 『 Forty Singing Seamen and Other Poems』(1907年)に収録されている。

「バラッド詩」(lterary ballad) とは、イギリスにおいて文字を持たない民衆によって歌い語り継がれてきた口承物語歌「バラッド」を詩人が模倣しはじめて生まれたものと言われている。

 

因みに、1995年にBBC(英国放送協会、The British Broadcasting Corporation )が行ったイギリスの好まれる詩(Britein's favorite poem)を選ぶ全国的な投票で「The Highwayman」は15番目に選ばれた。

 

 

文・・・アルフレッド・ノイズ (Alfred Noyes 、1880−1958、イギリス・ウルバーハンプトン  (Wolverhampton) 生まれ)

1914年から1923年までアメリカの大学で英文学を教え、第二次世界大戦中も主にカナダとアメリカで過ごす。1949年の失明を機にイギリスへ帰国。

 

絵・・・チャールズ・キーピング(Charles Keeping、1924-1988、イギリス・ランべス(Lambeth) 生まれ)

リーゼントストリート工芸学校で、リトグラフ、エッチングを学ぶ。『しあわせどおりのカナリヤ』(『Charley,Charlotte and the Golden Canary』、1967年)でケイト・グリーナウェイ賞受賞 など多くの作品が評価されている。

 

(*データは2017年3月現在のもの。以下も敬称略とさせていただきます*)

 

 

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本編の感想の前に何となく余談。

ここにおいては日本語版が発行されている書籍を選んでゆこうと考えていた。

だけれど。どうしてもこの作品をエントリさせたかったのでその気持ちに従うことに。

カッコいい絵本選手権があるならば、私は迷わずこの本を推します。

(そんな選手権は勿論ないのだけれど、あるのならば迷わずもう1冊推させて頂きます。)

 

この作品にケイト・グリーナウェイ賞が与えられていることを知った時、少し驚いて凄く憧れてしまった。日本ではちょっとあり得ないような気がしたから。

このような雰囲気の<絵本>が存在をして、賞という栄誉が与えられきちんと評価をされているという環境(意識)は素晴らしいなぁと思う。

ホラーなラブロマンスなので、残酷なカットがあるし後味は良くないし絵柄の個性も強いので、年齢の低い子供や好みではなさそうな人に勧めようとは全く思わない。けれどこういう、<絵の本>として表現が研がれた美しい作品はもっと広く読まれて欲しいと、単純に素直に願ってしまう。いつか日本語版も出版されればとても嬉しい。

 

<絵本>が、子供が初めて出会う本として、長文の書籍を楽しむ前段階の本として、家庭や幼稚園や学校で読み聞かされる本として、だけの書籍ではなく、<絵の本>という創作物としての開かれた評価をされることが日本でももっと普通になれば、子供も大人も読書の幅が広がって楽しいだろうな。思考の自由度が増す気がする。

 

この作品は日本語版がないので書店や図書館などで簡単に手に取れないだろうけれど、ネットにて画像検索をしてみればキーピングの挿画は直ぐにたくさん見ることが出来る。ノイズの詩についてもネット検索をしてみれば原文も日本語訳も簡単に拾い読むことができるだろう。

好みの人はきっとすぐに引き込まれる筈だ。(苦手な人もきっとすぐに苦手だとわかる筈。)

 

でもやっぱり。出来るならばこの作品は<本>でリアルに五感で味わって頂きたい。自分の手の内で、この作品の世界が動きざわめくことをぜひ体感して欲しいから。

 

 

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簡単にストーリーを。

ある夜。馬に乗った1人の男が宿屋を訪れる。男は追剥ぎ。戸が閉められた宿の窓に向かって口笛をふく。

彼を待っていた宿屋の美しい娘が窓を開けて顔をだす。窓際で馬に乗ったまま追剥ぎは娘に語る。

「今晩、盗みにいって夜明けまでにはここに戻ってくる。もし追手をうまくまけず1日かかってしまったとしたら、月明かりで私の姿を探しておくれ。必ず、月明かりの頃までには戻ってくるから。」

2人は口づけを交わそうとするが身体がうまく届かず、追剥ぎは娘の髪に口づけをして西へ向かって去ってゆく。

この2人の話をこっそりと聞いている別の男。彼もまた娘を愛していた。

 

夜が明け、朝となり昼となってもまだ追剥ぎは帰ってこない。やがてやって来たのは国王の兵士たち。彼らは娘を人質・おとりとして捕え、追剥ぎを仕留めようとしていたのだった。

月明かりの下、何者かがやってくる気配。いち早くその気配の主を確かに感じた娘は追剥ぎに危険を知らせるべく銃により自らの命を絶つ。

銃声により不穏な何かを察知した追剥ぎはその場を立ち去る。

そして時をおいてあの銃声は愛しい人が自分を救うために命を絶った音であったことを知る追剥ぎ。怒り狂い宿屋へと馬を駆けて戻る…。

 

さて。

 

 

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この作品は文章も絵もシンプルだけれどドラマティックだ。

詩という短い文章で、絵本という少ないボリュームで、ここまで濃厚なドラマと余韻を生み出しているということが凄いと思う。

 

まず文章。バラッド形式の詩によって書かれているので、文章による物語というよりも人の声によって語り継がれる昔話のような雰囲気があり、それがこの作品の不思議な浮遊感を生み出しているのかもしれない。

韻が踏まれ、音色が耳に残るような言葉が繰り返され、色彩が鮮やかに差し込まれ、詩の技巧の確かな駆使により柔らかくざらついた愛の物語を創り出している。

 

そして絵。白と黒とセピアを基調とした色使いで、ディテールは細やかに、フォルムは大胆に描かれている。人物や馬、風景・静物のラインや黒塗り部分以外に広がる淡くぼんやりとした彩色がまるでたちこめる霧のようで、物語の不気味さや哀しさを巧みに表現している。

 

登場人物たちの心中は文章で明確に示されてはいない。人物たちの身なりや顔色、状況を示すことによって淡々と書かれている。けれど絵によって人物たちの思いはまさに<見ての通り>だ。

描かれている娘の表情を見れば彼女が恋をしていることや愛しい人を守ろうとする意志の強さがはっきりと分かるし、追剥ぎが娘の前では紳士であろうとしていたことや彼女を奪われた時の怒りの激しさと絶望の深さも確かに伝わってくる。

 

 

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全体の造りというか、からくり、が素晴らしい。

詩としての型として、プロローグとエピローグがある。殆ど同じ文章で書かれており、それに相応して絵も同じカットが充てられている(見返しとタイトルペエジ(エンディングペエジ)を含めての計6カット)。

けれど、エピローグでは色彩が一転している。同じカットだけれど、白と黒が反転をするのだ。

プロローグでは白地に色彩の通常の世界が、物語を経て、エピローグにおいて一面の闇に白く浮かび上がる世界となる。まるでエックス線で浮き上がる、肉が消された骨を見せられるような。

同じ景色だけれど何もかもが違う世界…。不気味で鮮やかな演出だ。

 

そして、窓という小道具の使い方が心憎い。

この窓辺で2人は逢瀬を重ねたのだろうと想像をしてみる。

口笛によって呼び出すというのはおそらく2人だけの決めごとで、朝も昼も夜も、きっと娘はこの窓からみえる風景に愛しい人の姿を思い出し探し出し過ごしていたのだろう。そう思って見てみるとこの窓からの同じ構図のカットは素晴らしい。

木立ちと小道と浮かび上がる月だけで、娘の、時が過ぎても愛しい人が現れない不安や、兵士がやって来た時の恐ろしさ、やっと彼の姿を見つけた時の嬉しさと死への決意を描きだし、読み手は知らずと物語の展開に引き込まれていく。

 

 

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この作品の魅力は<絵の本>であることを充分に活かしきりながら紙という平面に収まらず、描かれた世界の時空を立体的に立ち上げてしまうような、力強さにあるだろう。

 

表紙があって、めくると見開きに広がる、白い余白に月を背に馬で駆ける追剥ぎ。

彼が向かう先を追ってめくり現れるのはタイトルペエジ。2つのハートのモチーフがある窓の木戸。その内には娘が待っており、彼の来訪によってそれは開けられる。

物語が終わって、同じように現れる色が反転した窓の木戸。ハートのモチーフは2つ変わらずに刻まれているがそれが開かれることは二度とない。その内に待つ人もそこを訪ねる人ももういないから。

 

けれど。窓の木戸を置いてめくり現れる裏表紙見返り。反転した闇の追剥ぎは月を背に馬で駆け続ける。愛しい人のもとへと。

そして。本を閉じてたどり着く裏表紙。

 

裏表紙のカットだけを見ても意味はなく、表紙からはじめて本編へ行き最後まで読み切ってこそ、この裏表紙の感動は待っていてくれる。

この展開が実はきっとこの絵本の1番の見せ場。詩には書かれていない情景。読み終わっていつもこの裏表紙を長く見つめてしまう。

 

キーピングの絵は、言葉に書かれていることを描き出すというよりも言葉に秘められていることを描き出して、読み手の心に深く消えない余韻を残していく。

娘の黒髪に編まれた深紅の恋結び(a dark red love-knot) は愛する人によってほどかれ2人の思いは叶えられるのだ。

反転された世界と 読み手の心の内で、何度も 永遠に、ペエジがめくられるごとに。

 

 

 

・・・・・・

 

 

PS:  WORDSONG -sama

Thank you for sending the book. You have a wonderful selection of items♪ I'll call you again for the next service.

 

 WORDSONG

     

 

 

        
2017.03.05 Sunday

なみ / スージー・リー

Suzy Lee
Chronicle Books
(2008-04-16)

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オリジナル・・・ 『WAVE』(2008年)

日本版装丁・・・ 城所 潤(ジュン・キドコロ・デザイン)

 

スージー・リー(Suzy Lee、1974年ー、韓国ソウル生まれ)

 

イタリアの出版社から出された『 MIRROR 』(2003年、日本では未刊行)で注目をされ、その後イギリスの出版社から出された『 WAVE 』(『 なみ 』)はニューヨーク・タイムズ紙の「10 Best Illustrated Children’s Books (2008年)」など数多くの賞を受賞し、世界各国で出版化される(日本を含め11か国、10種類の言語による)

文章は他の作家で自身はイラストのみのコラボレイト作品もある。

著作の日本での出版は『なみ』の他に、『かげ』(『SHADOW』、2010年)、『 このあかいえほんをひらいたら 』( 文 / ジェシー・クラウスマイヤー、訳 / 石津ちひろ、講談社、2013年。オリジナル…『Open This Book』、2013年)の3冊。

 

 

Suzy Lee Books

 

(*データは2017年3月現在のもの。以下も敬称略とさせていただきます*)

 

 

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言葉のない絵本なのだけれど、簡単にストーリーを。

 

お母さんと海にやって来た女の子。海に駈けより楽しそうに波とたわむれる。かもめも女の子と一緒になって遊びはじめる。

波はまるで女の子を誘うように脅かすように寄せては返し、ついには女の子は頭から波をかぶり水びだしになる。

やがてお母さんが迎えに来て、女の子は手をふって海をあとにする…。

 

 

・・・・・・◆ 

 

本編の感想の前に何となく余談。

この作品は日本で刊行された時に書店で見かけて立ち読んだ。2009年か、もしくは2010年あたりだろうか。

作者や作品についての情報は全くなかったのだが、平積みになっていたことと本を開き見てその造りの独自性から、話題の作品であろうことは直ぐに伝わってきた。

 

面白くて素敵な発想だなぁ…と驚いて息を飲んだが私の好みに深く入ってくることはなかった。意外性を狙ったような、わざわざ読者参加を促しているような感じがして、何というか、私は別にそこまでは求めないかなーという気がしてしまったのだ。というのが、最初に感じた正直なリアクション。

それ以降、スージー・リーに注目をして彼女の作品を読み進めるということは特にしなかった。

 

だけれど。

きっかけがどうにも思い出せないのだが、ふと『なみ』を思い出して作秋に久しぶりに読んでみた。すると何だかすごく心にひっかかってきて日本未刊行の作品まで取り寄せて読み…、久しぶりに1人の作家を軸としてその世界を楽しんだ。今もまだその途中。

読み返せて本当に良かった。

 

この作品は『MIRROR』『かげ』と、サイズと造り(演出)が共通しているので3冊を並べて読み込んでみるとまた更に楽しいのだが、今回は『なみ』にのみ焦点を絞ることとする。

機会があれば改めて、3冊を並べて述べてみたいなぁ。

 

とりあえず、さて。

 

 

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『なみ』は表紙がまず素敵だ。大きな海に対する女の子の後ろ姿。気持ちよさそうだなぁと思う。

そして表紙をめくると裏には淡いグレイがマーブル調に塗られていて、濡れて吸いつくあのダブダブねっとりとした海辺の砂を思い出させる。

次にタイトルペエジ。海にやって来た女の子が笑いながら駆けている。はやる気持ちが身体をはやらせ我知らず走り出してしまうという、そんな子供らしさがとても可愛らしい。

 

スージー・リーの描く子供たちはいつものびやかだ。この『なみ』の女の子も思いのままに動き回り立ち止まり、全身が<自分であること>でみなぎっている。

そんな女の子に対する海も、水色と淡いグレーを少し含んだ躍動感あふれる波のしぶきやうねりがペエジの白地に映え、<海であること>に満ちている。

 

 

・・・・・・◆ 

 

「子供が海に行って遊んで帰る」というごく普通のシンプルな設定ながらこの作品は真新しく新鮮なオリジナリティをもつ。

それはおそらく、<普通>と<シンプル>をとことん芯までそぎ落とし、多くの読み手の心象にある<普遍的なもの>だけを綺麗に残しすくい上げて描いているからだろう。

そこには、性別や年齢や国籍を問わない<そのまま>の光景が新しく広がる。

 

真新しく新鮮なオリジナリティ…。その潔い魅力について具体的に語るならばおそらく3つの要素。

文章がないこと、色彩が少ないこと、そして 本の綴じ目(ノド)を活かしていること、だ。

 

 

・・・・・・◆ 

 

文章がなく、色彩が少ない、ということ。

これらの<無い>という要素が記憶と想像力をかきたて、読み手は自由に思う存分、自分だけの海を絵本に重ねてたわむれることが出来るのだろう。

 

そして。最も独特で注目される要素は、本の綴じ目(ノド)によって分断される世界。

左側のペエジは女の子のいる砂浜。右側のペエジは一面の海。

両者は遠く見える稜線でつながりながらも、真ん中にある綴じ目(ノド)を境にして越えることはせず、行きつ戻りつたわむれる。

読み手は戸惑いつつも思いもつかない、けれどごくシンプルなこの仕掛けに嬉しく驚くこととなる。

(これはもう文章で説明しても上手く伝わらない、まさに<見る愉しみ>なので、本を手に取って頂けたらと思う。)

 

左右の世界は、ただそのままに<女の子と海>で見るのが1番素直で気持ち良いと思う。

そのうえで更にこの作品の面白さを愉しみきるならばこの左と右を、ヒト社会と自然界、と置き換えることはもちろん、日常と非日常、現実と空想、と考えることも出来るだろう。他にも<相対するもの>で色々と当てはめられるかもしれない。

 

 

・・・・・・◆ 

 

作品世界を分断する綴じ目(ノド)は女の子やカモメや海と同じく、物語の重要な<役>として存在をしていている。つまり、本の一部であるだけではなく物語の一部でもあるのだ。この二重性が読み手の意識に揺さぶりをかけてくる。

初めて読んだ時には分からなかったこの<綴じ目>の不思議な魅力について、読み返す私の理解を助けてくれたのは<カモメ>の存在だった。

ペエジの左右で分断される世界、ではあるが、ここを自由に行き来する存在としてカモメがいる。この物語における流動的で中立的な存在だ。

 

 

・・・・・・◆ 

 

女の子と海、だけでも成立するこの作品の世界においてこのカモメの存在を置いたことはとても大きな意味があると思う。ペエジに躍動感を与えていることはもちろん、女の子と波の関係を読み解くカギをあたえてくれる。

 

カモメは女の子のそばを飛び交い、女の子と一緒に波の様子を伺いながらたわむれ、波が大きくなりそうだと見ると女の子を置き去りにして飛び去りもする。

カモメはけっして女の子や女の子のお母さんに近づきすぎることはない。なぜならば、カモメの生きる世界は女の子と同じ左岸ではないから。

(裏表紙で女の子の頭のうえにカモメがとまってはいるが。)

 

 

・・・・・・◆ 

 

ラストシーン。遊びつくし、スカートに貝殻や石をつつみ込み、靴をはいてお母さんと一緒に左ペエジの左岸を帰っていく女の子。左岸から遥か遠く、右側の海のペエジ上空に飛ぶカモメたち。

 

靴を履くことで女の子はヒト社会へ、海の上空を飛ぶことでカモメは自然界へ、それぞれが自分の世界へと戻っていく。

そして、地上では存在をしたかのように思われたあの越えられないボーダーは遠く上空から見ればその影もなく、波は綴じ目(ノド)を越え海は悠々と存在をする…。

のびのびとただそのままに他者性を描き切り、周到で鮮やかなエンディングだ。

そして、女の子が波とたわむれ岸を帰っていくように、絵本(フィクション)を読んで閉じリアルに帰っていく、読み手である<私>。。。

 

 

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私が感じているスージー・リーの魅力は、<今この時>を愉しむ明るさと、<今これから>を見つめる冷静さ、があるところだ。

これから生まれゆく新世代の名作絵本とは、この2つの要素を持ち合わせているかどうかが重要なポイントとなるのではないかと私は考えている。生きている、ということだけでなく <生きていく>ということを正面からとらえるということが、大人にも子供にもこれからの時代は更に重要になっていくだろうからだ。

このことに気づきたくて私は無意識に改めてスージー・リーを手にとったのかもしれない。

(もちろん、暗い、寂しい、難しい、古い、意味がない…などの要素を否定や無視をするつもりは全くない。)

 

 

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<今この時>と<今これから>、<愉しむ明るさ>と<見つめる冷静さ>。

これらの要素はもちろん読み手にも託されている筈だ。なぜならば、本は開かれないと物語が始まらないから。私たち読み手は、綴じ目(ノド)と同じく、物語の重要な<役>として、物語の一部として存在をしているのだ。

本を左右に分断をする綴じ目(ノド)の垂直線上に存在をするのは、フィクションの世界を俯瞰したリアルで、本を持ってペエジをめくる、アクションをおこす<私>だ。

 

遥かなる過去や遠い未来からみればフィクションとリアルの越えられないボーダーなども何もなく、ただ<時>が悠々と存在しているだけかと思うと怖くもなり愉しくもなる。

 

 

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Vpo-san : Thank you for your advice. I was inspired by your words.

 

 

 

        
2016.12.20 Tuesday

星どろぼう / アンドレア・ディノト:アーノルド・ローベル

アンドレア ディノト
ほるぷ出版
(2011-12)

 

 

オリジナル・・・『 The Star Thief 』(1967年)

日本語訳・・・ やぎたよしこ(八木田宣子、Yoshiko Yagita)

 

文・・・アンドレア・ディノト(Andorea DiNoTo)

 

アート、クラフト、フードを主に手掛けるライター・エディターとして活躍。『 Art Plastic:Designed for Living 』(1984年) など著作多数。子供向けの作品執筆はこの作品ともう一冊『 The Great Flower Pie 』(絵 / Lois Ehlert、1973年、おそらく現在絶版)。

 

絵・・・アーノルド・ローベル(Arnold Lobel、1933-1987、L.A生まれ)

 

『どろんここぶた』(『 Small Pig 』、1969年)、『ふたりはともだち』(『 Frog and Toad Are Friends 』、1970年))、『ふくろうくん』(『 Owl at Home 』、1975年)など数多くの名作絵本を送り出す。

 

(*以下も敬称略とさせていただきます*)

 

 

 

 

簡単にストーリーを。

むかし、山のてっぺんにある村に住んでいたどろぼうが、空の星が触りたくて、欲しくて、堪らなくなって…空にはしごをたてかけて登って行き、星を全部盗んでしまう。そして今度は月までも自分のものにしたくなって盗みに行ったどろぼうは、村の人々に捕まってしまい、空に全ての星を戻すことになるのだが…。

 

 

 

 

本編の感想の前にこの<本>についてざっと考察。

(<本>についてなのでこの▲僉璽箸砲いては、お話はテキスト、絵はイラスト、と記す。)

 

この作品は日本での初版は1978年。その後「新版」として2011年に再版。2016年8月に新版第6版の発行となる。

因みにオリジナルは1967年初版。その後の流れがわからないのだけれど、どうやら現在英語版は絶版の様子。素敵な作品なのに寂しいな。

 

日本版の旧ヴァージョンと新版を比較してみると、改行ポイントに数か所の変更があるけれどテキストの内容に変更は見られない。

イラストについてもカットなどは全く変わらない。けれど、色の明度や彩度がかなり変えられた印象を受ける。具体的に指摘をするならば、オレンジ色がかなり明るくなった。なので作品の全体的な雰囲気も明るくなっている。

私の手元にある洋書はアメリカ版で1968年発行の第2版。古本なので痛みもひどく(アメリカの小学校の図書館蔵書だったみたいで落書きがあったりもする)、単純に比較はできないのだけれど、オレンジ色はそう明るくはない。

 

一般的にどうしても最初に見たものが物ごとの評価判断の基準になる傾向はあるのだけれど、この作品においては洋書や日本の旧ヴァージョンのぼんやりとした薄明り具合の色味の方が夜の不思議さやテキストの穏やかさを表現しているような気がする。やはり原画がどのような感じなのかを見てみたいなぁ。

<そのまま>をそのままに感じたいといつも思う。

 

さて。

 

 

 

 

いつの間にやら街はいっきにクリスマスモード。先日のぞいた書店の絵本コーナーの書棚にもクリスマスにちなんだ作品がたくさん並んでいた。

この『星どろぼう』はクリスマスのお話ではないけれど、私がクリスマスに絵本を贈るならば迷わずこの作品を選ぶ。夜空と星がとても綺麗で、願い祈ることの美しさを教えてくれるから。

 

この作品でまず心ひかれるのはローベルの素敵な絵。

ペンで描かれた表情のある軽やかなライン。色合いは黒と白、黄色とオレンジを主にして、それ等のグラデーションによるシンプルな構成。

構図もとても素晴らしく、トランプカードの図柄のような手の込んだ繊細さと雄大な配置がお話に広がりと流れを生んでいる。

 

そして、星の描かれ方がまた特別で素敵。

サイズは実寸大イメージではなく、人が両手で軽く包み込めるぐらいの大きさ。

デザインはいわゆる星マークのような形ではなく、全てマルい形。そのマルの中に様々な柄が描かれていて、まるでクリスマスツリーのオーナメントのような、輝く宝石のような、特別な砂糖菓子のような、何とも楽しく美しい造形だ。

 

お話もいたってシンプル。

どろぼうがいて、星を盗んで、村人に捕まって、ちょっと色々あるのだけど、無事に星を空にもどして、おしまい。良き行いではない悪戯心は罰を受けるけれどたまにはそういうのも楽しくていいよね、みたいな感じ。

けれど。ゆっくりと時をかけて読み重ねてゆくとこの作品のお話の深さに心地よく包まれてゆくこととなる。

 

絵を眺め、お話を読んでいると、この絵本の中に入り込んで私も星たちに触ってみたいなぁといつも思ってしまう。決して手の届かない、神秘的で穏やかに優しい光を自分の手で包みこめるだなんて…きっと幸せな気持ちでいっぱいになるだろうな。

ひんやりしているのかな、ほんのり暖かいのかな。ちょっと頬ずりしても平気かな。

 

 

 

 

この絵本のはじまり。

 

むかし、山のてっぺんにある村に、ひとりのどろぼうがすんでおりました。

このどろぼうは、空の星にさわりたくてさわりたくてたまりませんでした。

心のおくでは、じぶんだけの星を一つ、ほしいとおもっていました。

心のおくのそのおくでは、星という星を、ぜんぶじぶんのものにしたいとおもっていました。

 

Once upon a time, in a village on a mountaintop,

there lived a thief who yearned to touch the stars.

In fact, deep in his heart, he wanted to have a star for his own.

And even deeper in his heart, he wanted to own them all.

 

 

はじまりからいたずらっぽくてワクワクさせられる。

 

この作品においてそれぞれのキャラクターはそれぞれに重要な役割をになっている。

星を盗む人は村人のうちの1人ではなく <どろぼう>でなくてはならず、どろぼうを見つめる人物も大人のうちの1人ではなく <男の子(子供)>でなくてはならず、そして村人たちも <子供を守り、どろぼうを罰する心>を持っていなければならないのだ。

なぜならば、<どろぼう>とすることで<罪>が、<男の子(子供)>とすることで<純粋>が、<村人(多数)>とすることで<正義>が際立つからだ。そうして読み手はどのキャラクターにも自分を映し出して自由にお話の空間をたどることが出来る。

 

因みに、<男の子(子供・純粋)>が<どろぼう(罪)>と<村人(正義)>の間を自在に行き来できる流動的で中立性のある存在として描かれているところがとても興味深いところだ。

 

 

 

 

どろぼうのひょうひょうとした雰囲気には愛らしさがあり、<どろぼう>として憎み切れない魅力がある。それはやはりローベルの絵のもつ<暖かさ>がそうさせているのだろう。

その何とも暖かな表情と、ズルさよりも呑気な子供らしさが垣間見えるどろぼうの言動には共感と慈しみがわいてくる。

 

そして、樽から溢れ出た星の海に村人たちと埋もれている時につぶやく彼の独り言には、読み手の虚をつく優しさがある。おそらく、このお話のもう1つの、隠されたテーマではないだろうか。

その言葉に込められた誰も知らない優しい思いは、村の夜が明けて朝になり、お話が終わって本が閉じられても、読み手の心のうちに消えずそっと残りゆく。

 

 

 

 

誰の内にも住まう、愚かな心と小さき心。それ等がひそかに結びつき微笑みあうラストペエジは愛おしい。きっと、誰もが心のおくのそのおくに、秘めた願いをたずさえているのかもしれない。

<そのまま>をそのままに愛せたらといつも思う。

 

 

        
2016.11.13 Sunday

たまごって ふしぎ / アリス&マーティン・プロベンセン

アリス・プロベンセン,マーティン・プロベンセン
講談社
(2012-01-21)

 

オリジナル ・・・『 WHO'S IN THE EGG? 』(1970年)

日本語訳 ・・・ 小宮宙 (Yu Komiya) 

日本語版装丁・・・田中久子  (Hisako Tanaka)

 

絵・文 ・・・ アリス・プロベンセン(Alice Provensen、1918−、イリノイ州生まれ)

        マーティン・プロベンセン(Martin Provensen、1916−1987、イリノイ州生まれ)

 

2人ともアート・インスティテュート、カリフォルニア大学を卒業。マーティンはウォルト・ディズニー・スタジオに、アリスはウォルター・ランツ・スタジオに入りそれぞれアニメーションの仕事に就く。

アメリカ海軍の映画制作中に出会い、1944年に結婚。その後NYに拠点を移しスタッツバーグ (Staatsburg) に農場を購入。納屋をアトリエにして子供のための本を描きはじめる。

1984年『栄光への大飛行』(BL出版、『The Glorious Flight : Across The Channel With Louis Bleriot』、1983年)でコルデコット賞を受賞。

 

(*以下も敬称略とさせていただきます*)

 

 

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アリス&マーティン・プロベンゼン夫妻(以下、プロベンゼンと表記)による科学絵本。

と言っても、<科学>的な感じではなく、「たまごってなんだろうね? たまごから生まれてくる生きものってたくさんいるんだよ」という感じの<いのち>のことを教えてくれるというような、まだ年齢の低い子供向けの、内容も絵柄も優しくてシンプルな絵本。

 

プロベンゼンの作品群は絵柄や手法のバリエーションが豊富なので時々「え、この作品もプロベンゼン?」と嬉しく驚く時があるのだけれど、どの作品もデザインが美しいという点は共通している。

この作品も表紙がまずとても素敵。

作中に描かれている子供たちや動物たちなどはシンプルで可愛らしい感じなのだけれど、表紙の女の子は俯き加減に卵を見つめるちょっと大人っぽい雰囲気。全身で何かにのめり込んでいる時に子供が発する何とも言えない、柔らかくも純度の濃いエネルギーを感じる。

そして裏表紙にはイースターエッグ。綺麗な模様が施され上品な華やかさがある。

 

表表紙の女の子、裏表紙の卵。それぞれに独立した素敵な絵なのだけれど2つの表紙を左右に広げて見てみれば、その美しさが繋がり更に増してくる。と言うのも2つの絵を並べてじっくり見てみると、表と裏で使われている色の種類が全く同じだということに気づかされるからだ。

象牙色に近い白、少しくすんだ黄色、黒と、黒に近い紺色、インパクトのある水色、透明度の高いピンク。全く違うモチーフを全く同じ色彩のみで描くという遊び心。なんて面白くて高度な表現なのだろう。。。と、この作品はいつもまず表紙にホレボレにやにやしてしまう。

 

 

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表紙を愉しみ、ペエジをめくっていくと可愛らしい世界が広がる。

沢山の女の子や男の子がでてくるのだが、どの子もともかく造形が愛らしい。(私は特に動物園でアイスクリームを舐める姉弟?の表情が大好き。)

 

そして面白いのが、同じ子供(人物)である筈なのに着ている服の装飾や帽子の形、タイツの色などがペエジごとにころころと変わったりするところ。アリスとマーティンの2人でペエジごとに分業をして描いていたのだろうか。よく見てみると、子供の表情などのタッチがペエジごとに違っている。

それは別に作品の出来映えには全く差し障りのない寧ろとても愉快なことなので、子供と読むのならば「前のペエジとこのペエジの女の子で違うとこはどーこだ?」なんて遊んでみるのも楽しいと思う。本来とは違う読み方だけれど…。

 

 

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この作品を初めて読んだ時の感想は「小さな子供向けだな」。その理由はもちろんその絵柄とテキスト。

描かれている卵も人物も動植物も化石も全て、精密でも正確でもない、子供好きのするような絵柄。

そしてテキストも 「これは だれのたまご?」 「これは ○○のたまご」 というような、観察でも解説でもない、子供好きのするようなお話。あーそうだねそうだよね、という感じでのんびりさらっと読んでいた。

 

けれどふと、読み重ねてゆくうちにだんだんと卵に関わる子供時代の思い出が浮かんできた。

いとこの家の庭の池でカエルの卵を見た時の驚きや、空き地でカマキリが卵から湧き出てくるのを見た時の興奮。博物館で見た恐竜の卵のレプリカの格好良さ、鶏が卵を産む瞬間を見守った時の緊張、夏休みの朝にフライパンに割ってみた卵が双子卵だった時の衝撃・・・。

 

そんなことを思い出してみると一気に、絵本の世界が、読み方が変わってくる。そして、あーそうだったなそうだったよね、という感じで、卵って不思議だなぁ なにが入っているのだろう…という思いが、小さい子供とはまた別の気持ちで湧いてきたりする。

 

改めて、子供とは別の気持ちでこの絵本を見てみれば、絵の技巧や色遣いがとても興味深い。

ナイフかペン先で削ったかのようなタッチや輪郭を創り出すラインの緩急。版画のようにぺったりと塗られた面と水彩の淡さを活かした面の使い分けとそれぞれの美しさ。油絵のように何色もの色が重なり合ってかもし出されるニュアンスと立体感。1ペエジごとにゆっくりと観察してゆくと、見れば見るほど細部まで手が込んでいるのだ。

可愛くて面白くて美しくて見飽きない。

 

 

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「科学絵本」という言葉やククリにいつも違和感を覚える。ヘリクツを言ってしまえば、世の中の全ての絵本は「科学絵本」であるべきだと思うから。

例えばこの作品の生み出した世界は、プロベンゼンによる絵やテキストにより形成されていて、それは我々が生きる世界が様々な現象の蓄積により形成されている、ということの1つの縮図(実例)にすぎない。つまり、絵本を<表現>と捕えるか<実証>と捕えるかの話なのだけれど、「科学絵本」とは <科学を伝える絵本>であるだけでなく <科学を実証するモノ>であって欲しいのだ、きっと 私は。

 

<表現>とするのならば許容範囲は広くなるけれど<実証>とするのならばそこに破たんや矛盾はあってはならず、それはつまり絵本の絵やテキストに確かな精度が求められる、ということになるだろう。

確かな精度とはおそらく<表現>的に言えば、真理 と換言される筈だ。それは 正しさ や メッセージ とは違って…。

 

なんて、思考の遊びをさせてくれるのだからこの絵本は「小さな子供向け」だけではないなぁ。

絵本って ふしぎ。

 

 

 

        
2016.10.20 Thursday

ブーツをはいたキティのおはなし / ビアトリクス・ポター:クエンティン・ブレイク

 

オリジナル / 『 The tale of Kitty in the Boots (Peter Rabbit)』(2016年)

日本語訳 / 松岡ハリス 祐子(Yuko Matsuoka Harris)

 

文 ・・・ビアトリクス・ポター  ( Helen Beatrix Potter、1866-1943、イギリス・ロンドン生まれ)

 

27歳の時、かつてポターの家庭教師を務めていた女性の息子が病に倒れ彼を元気づけようとして、ピーターと言う名のウサギの物語を絵手紙にして送ったことがきっかけとなり、自らその本を出版することを決意。

これが『ピーター・ラビットのおはなし(The Tale of Peter Rabbit)』となり、1901年に自費出版。好評を博し、1902年にはフレデリック・ウォーン社から出版され絵本作家としてのスタートをきる。

因みにこのフレデリック・ウォーン社はポターの良き理解者となりやがて婚約者となる編集者のいた出版社であり(夭折により結婚は叶わず)、今回のこの作品はフレデリック社から出版された。

 

絵 ・・・クエンティン・ブレイク  (Quentin Blake、1932-、イギリス・ケント州生まれ)

 

マイケル・ローゼン(Michael Rosen)、ロアルド・ダール(Roald Dahl)などのたくさんの児童文学者とのコラボレイトで知られる。

1980年ケイト・グリーナウェイ賞、2002年国際アンデルセン賞など多数受賞。

2013年にはその業績が高く評価され、大英帝国勲章を授かりナイトの称号を得る(Sir. Quentinと称されることになる)。

 

 

(*以下も敬称略とさせていただきます*)

 

 

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まずは、簡単にこの本が出来上がるまでの経緯を。

ピーターラビット(Peter Rabbit)シリーズの作者として有名なビアトリクス・ポター。彼女が100年前(1914年)に書き終えたとされる未発見原稿が2014年に発見される。お話と、挿画は主人公(主猫さん?)の黒猫が描かれた1枚のみだった。

そのお話にクエンティン・ブレイクが絵をつけ、ポター生誕150年の今年(2016年)に発行された。

 

簡単にストーリーも。

黒猫のキティはまじめでお行儀のよい猫。けれど飼っているおばあさんも知らないもう1つの顔(ウィンキーピープスという名の猫になる)があり、夜になるとこっそり散歩に出かけている。そしてある夏の月夜、狩りへ出かけたキティは。。。

 

 

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何となく立ち寄った書店で偶然に見かけて手に取ったこの作品。店頭では表紙を見せた様子で棚に置いてあり、帯には太字で「ビアトリクス・ポターが100年前に遺した 幻の名作を発見!!」。

 

とても驚いた。というのは、帯で「さく、え、やく」の人名部分が隠れていたのでタイトルと表と裏の表紙絵しかちゃんと見えず、読み終わるまで帯の文章を読まないようにしている私は疑いもなく絵もポターが描いたものと思ってしまったからだ。

で、「出版社より」「イラストレーターより」という前置きも読まずに本編に入ったので、もう驚くばかりだった。

 

えーポターってこんな絵も描いたの??おぉーフィッシャーみたい…というかブレイクみたい。しかしポターがこういう絵も描いたなんて。。。わーびっくりだー。。。

 

と、お話を読み終わって気持ちを落ち着かせ前置きなどの説明文を読み…納得。やはりブレイクだったのね。

数分間の<私だけの>幻の名作でした。

 

 

・・・・・・

 

この作品は「古い時代に書かれたテキストによるある1冊の絵本」として普通に読めばまぁ普通にそこそこ楽しめる。ただ、そうしてしまうだけなのは果たしてどうなのだろうとも思う。

 

私におけるこの作品への結論は極めてシンプル。けれどその結論を裏付ける理由というか気持ちを直ぐには解明が出来なかった。

そこでふと、その糸口を見つけるべくイギリスサイトのレビューを覗いてみたら面白かった。おかげでしっくりこなかった気持ちもスッキリ。

視点を変える、原点に還る、ということはやはり大切なのだなぁと改めて思う。

 

まずやはり、イギリスサイトにおけるコメントは日本に比べて全体的に<ポター愛>が熱く深いような印象を受けた。

満足している人は「面白い」とか「良かった」というようなざっくりした感想なのだけれど、ガッカリした人の感想はかなり具体的なもので説得力があった。ガッカリの理由は主に以下の3点。

( 狩り hunting についてのコメントは意外と余りみられなかった。)

 

 )椶離汽ぅ困砲弔い董

通常のポター作品の、子供の手のひらサイズではなかったのが残念。

→ 今回の作品はA4サイズ。

持っているピーターラビットシリーズと並べることを愉しみにしていたのに、ポターの本はあのサイズでなくちゃ、という声がかなり見られた。そうかナルホド。

 

◆〇駑租な配慮や愉しみについて。

今回発見されたポターの描いた黒猫の挿画が掲載されていないのが残念。

→ 因みに日本版では、小さなカラーの資料が挟み込まれており、そこで訳者のメッセージと共にポターの挿画がカラーで見ることが出来る。ありがたい。

 

 クエンティン・ブレイクの絵について。

賛否両論。

→ なぜブレイクがこの作品の絵を受け持つことになったのかという理由(根拠)は具体的に公表はされていない。

「イラストレーターより」にあるブレイクのメッセージによると、自身の家の近くの小学校が立っている場所にかつてポターが育ち若い頃を過ごした家があったらしい。他にもこの作品と自分が通ずる偶然や縁を多く感じたようだ。

 

 

・・・・・・

 

イギリスサイトのコメントや記事は英語力の弱い私は流し読みなのだけれど、とても興味深かった。

私はポターの作者像や作品群には詳しくはなく、この作品に関してはオリジナル版を取り寄せて確認をしていないので、,鉢△亡悗靴討蓮△覆襪曚匹修Δ世蹐Δ覆 △箸いΥ響曄

で、私が考えるのはについて。ブレイクの絵は<この作品>にとってどうなのか、ということ。

 

この作品の絵をブレイクが描いたことの<意味>はおそらく、ポターの世界の中でポターには創造できなかったもの達が動きまわる、ということだろう。

女性らしい繊細で柔らかなタッチにより優しく落ち着いたトーンで丁寧な美しい絵を描いたポター。対して、男性らしい大胆な省略と流れるような跳ねるような躍動感で明るく時に意地悪くブラックテイストをにじませるブレイク。

生きた時代も性別もそして作風も、全てが全く異なる2人が時を超えてコラボレイトする…。

このありえないミスマッチを、素直に楽しむか、正直にがっかりするか、そこでこの作品への評価が分かれるのだろう。

で。私のこの作品への結論は、素直に楽しみ正直にがっかりした、というもの。

 

だけれど。

それだけでは簡単。その結論から更に、出会えたことに感謝してその先を考えてみることをしたい。

今回、この作品を通して私は<個性>や<コラボレイション>、そして<時>について色々と考えさせられた。

 

 

・・・・・・

 

ということで。

素直に楽しみ、更に考えるならば。

ターの作品は文章と絵の両方で1つの世界(作品)というイメージがあるので、新しく挿画はつけず発見された文章と1枚の挿画のみによって発刊をするという選択肢も、もしかしたらあったかもしれない。けれど、ある意味真逆ともいえるブレイクの絵が投入されたことによってポターの世界に何があって何がないのかが自然と浮かび上がってくる。

この作品をきっかけに、ポターの創作を<文章>と<絵>に分けてもう一度、新たに再考してみることは面白いのではないか。

 

正直にがっかりして、更に考えるならば。

ポターの作品は彼女の作品というだけではなく、もはや世界の多くの人々の共有の<財産>でもある。ポターの文章の世界観とは明らかに異なる、そして敢えて言えば絵柄にかつての冴えと洗練が感じられない今回のブレイクの挿画は、100年の時を経てやっと人に読んでもらえることになったその文章がもともと伝えたかった世界にふさわしいものなのだろうか。。。

この作品が資料としての価値を離れた<1冊の絵本>として100年後にも他のポター作品と並んで愛され読み継がれているか…それを想像してみればこの問いへの答えは簡単だ。

 

 

・・・・・・

 

時を越えた彼方からの声を聞き取り、時を越えて彼方へと呼びかける。そんなことを繰り返してヒトは生きているのだろうか。その合間に例えば何かを創ったり受け取ったり、誰かを愛したり誰かに愛されたり。

遥か昔、今、これから。確かに存在をしてこれからも確かに存在をしてゆくのは結局モノでもイキモノでも何でもなく、<時>だけしかない。そんなことに改めて気づかされた。

 

 

 

悲しい本 / マイケル・ローゼン:クエンティン・ブレイク  Tabula Rasa  2013.10.08 

 

 

 

        
2016.10.13 Thursday

コロッケ できました / 彦坂有紀 : もりといずみ

 

彦坂有紀 (ひこさか ゆき Yuki Hikosaka)

彦坂木版工房の木版画家。イラストレーターとしても活動。絵本創作の他に木版製作のワークショップ開催、広告や食品パッケージ、雑貨デザイン、なども行う。

 

もりといずみ (Izumi Morito)

彦坂木版工房のアートディレクター、図案家。工房主催イベントの企画も行う。

 

彦坂木版工房 (Hicosaka Mokuhan Kobo)

2010年に彦坂有紀ともりといずみ によりつくられた木版工房。

 

 

因みに、『コロッケ  できました』はコロッケだけでなく他のメニューがいろいろと出てくる。

 

(*以下も敬称略とさせていただきます*)

 

 

・・・・・・ 

 

彦坂木版工房の新作絵本に伴う木版画展に行ってきました。思った通り、というか思った以上にやっぱりとっても美味しそうでした。あー満腹、ごちそうさまでした。

(『彦坂木版工房「コロッケできました」木版画展』2016.9/17〜2016.10/17 at.CLASKA Gallery & Shop “DO”たまプラーザ店)

 

お2人の絵本はいまのところ3冊。モチーフはどれもみんな食べ物。

<食べもの絵本>は日常のなじみあるものであることや食育の目的などから、主に小さな子供向けに描かれていることが多く、絵柄のテイストとしては、ススって舐めたくなるようなシズル感か、触ってかぶりつきたくなるような質感、のどちらかに分けられるのではないかと思っている。

で、この3冊は後者の質感グループ。ぱくっとあーんとがぶっと、大きく口を開けて食べたくなる。

 

 

・・・・・・ 

 

3冊に描かれた食べ物たちは全て「料理(調理)されている」というところが共通している。

しかもパンもケーキもコロッケも、どれも料理するとなるとなかなか手間暇かかるのものばかり。

パンはこねたり発酵させたりするし、ケーキも混ぜたり泡立てたり焼き目を気にかけたりするし、コロッケも具を準備したり衣をまぶしたり油で揚げたりしなくてはいけない。どれも何行程も経て仕上がるメニューたちだ。しかも途中や最後で手を抜いたり失敗したりすると美味しさが激減したりもする。(最近は簡単早うまレシピがたくさんあって助かるけれど。)

 

1枚の絵柄に幾つ版を重ねているのかなぁと思いながら見ているうちにふと、手間と時間をかけ何行程も経て仕上がるという流れは木版画が仕上がるまでと似ているということに気づく。図案を決めて版を作って色を決めて刷って待って刷り重ねて…。

だからこそあの内側から柔らかく浮かびくるかのような独特の質感の画が生まれ、パンやケーキの肌のきめや肉や揚げ物の層の重なりをより美味しそうにしてくれているのだろう。

<潔い丁寧さ>が料理するときには大事だと勝手に思っているのだけど、もしかしたら版画もそうなのかな。

 

 

・・・・・・ 

 

3冊のどれが1番好きかと聞かれたらかなり真剣に迷うのだけれど(誰にも聞かれてはいない…)、『ケーキ やけました』の苺とアイスのホットケーキのペエジは何かちょっと特別なんだなぁ。実はあのペエジをめくると何故かいつも美味しい匂いがしてくるから不思議で仕方ないのです。

絵(版画)の色や質感によって視覚と触覚が、文章の音によって聴覚が満たされているから、いつの間にか自然と嗅覚が刺激されて幸せな誤作動をしてしまうのだろうか。

苺の青く甘い香りとバニラとホットケーキのまったりと濃厚な香りがふわぁっ混ざって広がってくる…気がするのです、いつも。。。たぶん私だけの特典なのかもしれないけど、でもそういう人、他にもきっといそうな気がする。

 

食べものだけではなく、森や湖を見せてくれないだろうか。アンデルセンやグリムを描いてくれないだろうか。

時を重ねた不思議な美しい世界を木版画の絵本で見てみたいなぁ。そんな妄想をしてみたりする。

 

 

 

壁を抜ける 空を飛ぶ / 藤牧義夫 Tabula Rasa 2012.04.14

 

 

        
2016.09.23 Friday

くじらの歌ごえ / ダイアン・シェルダン:ゲイリー・ブライズ

ダイアン シェルダン
BL出版
(1998-12-10)

G. Blythe Dyan Sheldon
Hutchinson
(1990-10-16)

 

オリジナル ・・・ 『THE WHALE'S SONG』 (1990年)      

日本語訳 ・・・   角野栄子(Eiko Kadono)

     

文・・・ダイアン・シェルダン (Dyan Sheldan、NY生まれイギリス在住)

絵・・・ゲイリー・ブライズ  (Gary Blythe、リヴァプール生まれ)  

 

ケイトグリーナウェイ賞受賞。(Kate Grernaway Medal、1990年)

 

この2人の共著は他に2作ある。『庭のよびごえ』( BL出版、1994年/ オリジナル…『The Garden』(アメリカでは『Under The Moon』)、1993年)、『The Moon Dragons』(2015年、2016年9月現在は日本語未訳)。

 

(*以下も敬称略とさせていただきます*)

 

 

・・・・・・◆ 

 

簡単にストーリーを。

おばあさんの膝の上でリリーはくじらの話をきく。

「昔はいっぱいくじらがいてね、子供の頃にくじらの声が聞こえないかと耳をすませて待ったものよ。そうしたらある日、海の向こうから彼らがやって来たの。そして歌を聴かせてくれりもしたわ。おまえもくじらにみつけてもらいたかったら何か贈物をして待ってみてごらん…」。

おばあさんの話を聞いたリリーは次の日に古い桟橋に行き、花を海に送り夕方までくじらを待つ。そして、その夜。丘の遠くから聞こえてくる何かに誘われて目覚めたリリーは家をぬけだし浜辺へとかけ出して行く…。

 

装丁について。

日本版の裏表紙は紫色で作中の1場面をトリミングした絵がのせられている。

オリジナルのハードカバーはぺらりと付いているペーパーのカバー裏面に3行の内容アピール文があるがそのカバーをむいてしまえば、裏表紙の色は濃い紺色で全くの無地。濃紺無地の方がこの作品の<夜>にあっているかな。

 

 

・・・・・・◆ 

 

本編の感想の前に少し余談。

この絵本にはタイトルや表紙の絵からも察することが出来るように鯨が登場する。おそらく私のように「くじらがでてくるんだー」とごく普通に、もしくは期待してこの本を手にとる方は多いのではないかと思う。

けれど、鯨やイルカに関する考えや思いは日本と欧米ではかなり異なる。テキストの作者であるシェルダンのHPにある自作へのコメントを読んだところ、この作品を書きだしたきっかけはイルカの捕獲ニュースへの怒り("I was angry")によるものだったそうだ。海外サイトでのこの作品の書評レビューにおいても鯨やイルカの捕獲ついてふれているものが幾つかみられた。

そのことを知って、どこまでこの作品を読みこんで文章にまとめてポストすべきか、実はひるんで少し迷った。

 

で。ここにおける私の結論は、せっかく絵本なのだからそこに在るものによって読み解こう、というもの。この作品においては、作者や登場人物による特別なオピニオンは示されていないし感じられなかったので、そのままに読むことをした。(逆を言えば、オピニオンを示している作品はそれを解り切ることを念頭に読みたい。)

文化の相違については知っていて解っていたつもりだったけれど、今回この絵本をピックアップしようとしてみてこそ体感できた発見だった。

 

さて。

 

 

・・・・・・◆ 

 

大人になった今も、夜を感じると特別な気持ちになるし1人を感じると特別な気持ちになる。

そしてふと、子供の頃の夜と1人を思い出そうとすると何とも言えない気持ちになる。もうあの頃ではないのだなぁと。あの感じ、は大人の私にはもう味わえない。思いだすことさえ上手く出来ない。

そんなことをこの絵本を開く度になんとなく思う。

 

この絵本はいろいろな要素が不思議でちょっと変わっている。

 

まず、初めて表紙を見たとき「絵なのかな?写真なのかな?」と暫くまじまじと見てしまった。

で、正解は絵。欧米では肖像画や宗教画などが多くあるからだろうか、油彩による写実的な画風は日本よりも身近に楽しまれているような印象を受ける。

表紙を開いてペエジをめくって見てみれば…登場人物の着ているカーディガンやパジャマ、庭の草花や夕焼けや夜の月明かりの雰囲気から察して頃は秋だろうか。

 

人物の表情や室内の様子、風景などの全てがまるで本物のようだ。けれどそれはもちろん本物ではなく写真でもない、人の描いた絵。その微妙なズレ感や暖かみが読み手の興味をそそる。

キャンバスに描かれた油彩の絵であるというのがまた素敵な効果となっている。キャンバス地の布目、絵具の重なり具合や筆のタッチが平面に少しの立体性を持たせ、その<質感>が読んでいるこちらとは違う<別の世界>を生み出している。

 

そして、それぞれのキャラクターの設定が個性的。

まず主人公のリリーが黒い巻き髪の黒い瞳の女の子であることが良いなぁ。金髪に青い瞳の少女から無意識にイメージさせられる定型の未来とは違う、未知の未来をイメージさせられるから。

そして、リリーに関わる大人が父母ではなく、おばあさんとおじさんというのも興味深い。おばあさんとおじさんからは年齢を重ねた叡智だけではなく、父母とは違う大らかさと少しの身勝手さが伝わってきて面白い。

 

くじらの話をする優しいおばあさんも魅力的だけれど、くじらは人間にとって食料などに出来る動物でしかなく夢ばかりみているような人間になってはいけない、と言うおじさんも魅力的だ。

このおじさんの役割を、鯨の捕獲を肯定する人・現実性のなさを否定する人、というある<型>として見るのは簡単で、自分の知らない価値観や角度が存在をする<同じ世界の一片>として捕えることによりこの作品の世界はより深まり広がってゆくだろう。

 

 

・・・・・・◆ 

 

最後のシーンの感触がとても不思議で印象的だ。

安心感や安定感を大切にする<絵本>において、作品の終わりは大抵がそれなりに<おしまい>になって終わる印象がある。だけれどこの作品は違う。音楽や映像作品でいうところのカットアウト的に、全てがその<ただ中>でばつっと終わるのだ。小説でもある手法だけれど私は絵本では出会ったことがなかった。

意図してのことなのか私が勝手にそう感じているのか解らないのだけれど、初めて読んだ時はとても驚いて「えー…?!」と軽く声を出してしまった。

ちょっと強引な感じもするのだけれど、気持ちの良い荒削り感だと思う。(2人の他の共著はまとまった感があって私には物足りない。)

 

このカットアウト的なエンディングの成立はテキストの不思議な構成や詩的な雰囲気によるものでもあるのだけれど、おそらく絵の構図と画法によるものが大きい。

ラストペエジでリリーをどう配置するか、どう描くかで同じ文章でも印象は全く違うものとなった筈だ。あのペエジは、あの構図に耐えうる画法と描き切る画力があってこその選択で、それがなければこの作品の躍動感ある余韻は実現しなかっただろう。

 

 

・・・・・・◆ 

 

ラストペエジのリリーのその瞳や眉間や口元、風に吹かれた髪に、彼女の秘めてあふれる感動を見つけることが出来る。想像を超えた新しいものに出会えた時の悦びと畏れのただ中の、高鳴る静けさが伝わってくる。

 

月明かりの窓辺のリリー、浜辺で鯨に出会うリリー、ラストペエジのリリー…。印象的なシーンが幾つもあるが、桟橋で鯨を待ちながら夕暮れまで1人で過ごすリリー、という情景がとても好きだ。

空想や想像の世界に全身で浸り漂う時間、子供こその濃厚な忘我と没頭感。。。その豊かさを懐かしく、そして羨ましく思う。

 

リリーが夢から目覚めても夢は彼女を愛し続ける。大人になっても人はきっと夢に守られ愛され続ける。

 

 

 

        
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