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2017.12.24 Sunday

ラチとらいおん / マレーク・ベロニカ

 

オリジナル  ・・・『Laci és az oroszlán』(1961年)

日本語訳     ・・・ とくなが やすもと(Yasumoto Tokunaga)

 

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マレーク・ベロニカ(Marék Veronika、ブタペスト生まれ)
美術や文学を学びながら、国立人形劇場のスタッフとして活躍。1963年に独立以降、絵本を執筆しながら子ども向けのラジオやテレビなどの脚本執筆なども続ける。

 

(*データは2017年12月現在のもの。オリジナル版(ハンガリー語版)の画像登録がなかったので掲載略。以下も敬称略とさせて頂きます*)

 

 

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クリスマスギフト絵本としてもう1冊勝手にセレクト。考えるのが楽しくて楽しくて。。。

暖かくて優しいストーリーと小さい変形サイズの特別感がクリスマスのわくわくとひそやかさに似合う気がする。

ラッピングはきりりと深い緑色の包装紙に透けるオーガンジーの金色リボンをふわっと掛けて…、この絵本は男の子か大人の男性に贈ろうかな。

 

ストーリーはごくシンプル。

ラチという名前の<よわむし>な男の子が小さな赤いらいおんと出会い、らいおんに励まされるうちに<つよいこども>になっていく…という感じ。

だけれど。何度読んでも味わい深くいつもちょっぴり泣けてくる。

イラストもいたってシンプル。

黒いラインによるラフなタッチの絵柄。色彩はオレンジ・黄・緑・白・黒の5色で、背景は白く描き込みはない。

だけれど。文字のフォントが可愛いかったり(特に「と」が可愛いのです。)、キャラクターの造形がどれも個性あふれて魅力的だったり、本のサイズが面白かったりと、デザインがすみずみまで凝って洗練されているので見飽きない。

 

 

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私個人の、今のところの感触なのだけれど、マレーク作品では「らしさ」が大切なテーマであるような気がしている。

面白くていつも不思議に感じるのは、その「らしさ」がいわゆる西欧的な神様からのGiftというような、空を見上げた感じではないような気がするところ。

登場キャラクターたちは自分や相手の「らしさ」をただそのままに、真剣に、悩んだり困ったり笑ったりしていて、何となく、世界の一部として生きてゆくための天からのMissionというような、地に着く足元を見つめた感じの「らしさ」であるような感じを私はいつも受ける。(何が、どちらが、良いという訳ではなく。)

 

東洋の世界観と共有できる感覚(感性)が作者や作品にあるのかなー、あるがままの「らしさ」を既に当然のものとして理解・解釈しているような、細やかな優しさと大らかな智恵を感じる。

マレーク作品やハンガリーという国についてこれからもっと読み重ねたり調べたりしていきたいな。。。

 

 

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今の自分が好きになれない、もっと強く生きていきたい…。

きっと多くの人が一度は抱くであろう思いと葛藤がこの作品には描かれているのだけれど、主人公が女の子ではなく男の子で、出会うのが他の動物ではなくライオンであることがこの『ラチとらいおん』の巧いところなのではないかと思う。

 

弱い男の子と強いライオン、という解りやすい組み合わせであることにより、主人公の切実な気持ちと確かな存在への憧れと信頼感がよりストレートに伝わってくるからだ。もしも主人公が女の子だったり出会う導き手が別の動物だったとしたら、特別なニュアンス(メッセージ)が生まれてしまい、この作品が持っている淡々としたシンプルさは実現しなかったのではないだろうか。

 

 

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自分らしくあることは、シンプルなことだけれど簡単ではない。そのことを解っているわけではないけれど感じている子供たちと、そのことを解ってはいるけれどそう上手くやれはしないと感じている大人たちが、例えばこの絵本をみて、暫し気持ちが柔らかくなって少し知らずと励まされるのならば…それはとても素敵なことではないかと思う。

らしさという「強さ」はきっと 「もう、なにも こわがりません」と ただそのままの笑顔で思える気持ちで出来ているのだろうな。

 

らいおんがラチくんにあてた手紙を読むといつもじんわり泣けてきてしまうのだけど、この手紙にある最後の「じゃ、さよなら」「じゃ、」が何とも好きで読む度にいいなぁと思う。「じゃ、」というこの短い言葉にらいおんの、変わらぬ愛の確認とお互いの旅立ちへの意志、がこめられているような気がするからだ。

読み終わって改めて表紙の絵を眺めると読みはじめる前に見た時とはなんだか違って見えてくる。らいおんを信頼しきったラチとラチを誇らしげに導くらいおん。同じ絵なのだけれど、楽しいひとときが戻らないあの時へと変わっていく不思議…。

 

じゃ、またね。

 

 

すきになったら / ヒグチユウコ(Tabula Rasa 2017.12.04)

 

 

        
2017.12.04 Monday

すきになったら / ヒグチユウコ

ヒグチユウコ
ブロンズ新社
(2016-09-14)

 

装丁・・・名久井直子(Naoko Nakui)

 

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ヒグチユウコ(ひぐちゆうこ、Yuko Higuchi)

 

画家。デザイン作品の他に絵本、自身のオリジナルブランド『Gustave(ギュスターヴ)』を展開。

絵本の作品に『ふたりのねこ』(2014年、祥伝社)など。

 

(*データは2017年現在のもの。以下も敬称略とさせて頂きます*)

 

 

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急に街が冬めいてきて、書店をふらりと覗いてみたら絵本コーナーにはクリスマスコーナーが。定番ものから新作まで色々と並べてあったので少し立ち読み。

私だったらどんなセレクションにしようかなぁ…なんて、贈る人を想定してあれやこれやと考えながら寒空のもと楽しい気持ちで家路についた。

 

大人の女性の友達にはこの絵本。

表紙の背景は漆黒。タイトル文字はピンク。表は花かんむりに赤いワンピースの女の子、裏にはシルクハットを持った鰐が描かれている。外国の特別なお菓子の缶みたい。

 

何かを愛する悦びと切なさが描かれていて、赤と緑というクリスマスカラーがひっそりと素敵に使われているから、クリスマスプレゼントにぴったりな気がする。

ラッピングは和紙っぽい質感のグレーがかった黒い紙にして、リボンはボルドー色でシンプルなリボン結びにしたいなぁ。。。

なんて想像するとわくわくしてくる。

 

さて。

 

 

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お話にでてくるのは女の子と鰐。ヒグチ作品というと猫がまず思い出されるのだけれどここに出てくるのは鰐。女の子と同じヒトではなく、親しみがわく猫でもなく、異質で異形の鰐であることがこの作品においてとても良いのだと思う。

 

鰐の鋭い歯や不気味な手足、皮の分厚さと攻撃的な突起が人の心の奥底に堅くこわばる弱さや寂しさ、醜さや恐ろしさなどをイメージさせ、少しはにかんだような口元と柔らかな光をもつ瞳に宿る優しさをより際立たせている。

 

女の子が表紙であることからまずは自然と女の子を軸にお話を追うのだけれど、鰐を軸にしてみるとまたお話の風景が少し変わって見えてきて不思議な気持ちになる。読むその時々で印象も変わるのだけれど、何となく、女の子の気持ちで読むと愛の切なさが思い起こされ、鰐の気持ちで読むと生きる哀しさが思い起こされてくる。

 

ペエジごとに女の子と鰐の表情がとても豊かで、少ない文章のなかにもその思いが伝わってくるかのようだ。

「すきになったら はなれていても どこかに あなたがいるだけで しあわせ」から続く3つのシーンの流れがとても好きで、そこにくるといつもどきどきする。

 

女の子の思いを運ぶ白い鳩。たどり着いて瞳を閉じた鰐の口先にとまる。無色だった鰐の身体が淡く微かに緑に染まる。そして鰐が瞳を開くと瞳を閉じた女の子がそこにいる。 

ロマンティックで、なだらかなさり気なさが素敵だなぁといつも思う。

 

 

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最後の文章がある見開き2ペエジ。このシーンと最後のペエジはじっくりと読んで眺めてしまう。初めてこの絵本を読んだ時、まず絵をさっとみて文章を読んでまたもう一度ゆっくりと絵を眺めた時に小さく驚いてしまった。あーそういうことなのかぁ、と。

 

「すきになったら わたしの いちぶは あなたになる」という文章なのだけれど、私は、好きになったら自分の一部があなたに奪われて持っていかれるイメージがあったのだと思う。なので、絵をじっくりと見た時に解釈の違いにはっとさせられた。

 

こういうのってよいな、と思った。自分が、好きな人や大切なもので出来ているのだと思うとなんだかとても嬉しくて幸せで、元気が出て勇気が湧いてくる。そして、想う先のあなたもそうあってくれたらとそっと心から願ってみる。

 

と同時に。例えばこんなに短い文章でも普通に違う解釈も出来てしまうのだ、ということにも気づかされ何とも言えない気持ちにもなる。なのでこの絵本を読むと何というか…暖かい孤独感のようなものをいつも感じる。

だってきっと、すきになったら、自分もあなたも何もかも  解らないものだと 解ってしまうから。

 

 

ラチとらいおん / マレーク・ベロニカ(Tabula Rasa 2017.12.24)

 

 

        
2017.11.24 Friday

夜に屋上であなたと絵本を

 

 

 

 

例えば 私は絵本が好きなのだけれど。

絵本を<絵本>として特別扱いをしたことはなく、子供のころからずっと何となく好きなのだと思う。

 

親が与えてくれた絵本で気に入っていたものは今でもよく覚えているし、

初めて自分のお金で買った絵本も覚えている。

自分1人や、きょうだいや、友達と絵本を作ったこともあったし、

中学生になっても、高校生になっても、大学に進んでも、

漫画や雑誌を立ち読みする流れでごく普通に絵本も立ち読んでいたような気がする。

別に特別な本好きでも書店好きでもなくて、本当にごく普通にただ何となく。

 

大人になって少しブランクがあって、久しぶりに絵本と再会をしたのは子供を通してとなった。

自分のためにではなく絵本を選び、読むことはとても新鮮で面白かった。

読み聞かせでたくさんの子供達に聞いてもらうのも嬉しかったし、

素話をする緊張感は特別だし、わらべうたを覚えたり、講演や勉強会に行くことも楽しかった。

お薦めの絵本の特集本や雑誌などを読んだし、共通の興味から交友も広がった。

 

けれど。

少しずつ何かがゆっくりと剥がれて奪われてゆく感じ。。。

私にとって絵本はやはり、ごく普通の何となく、であって欲しいのだと気づいた。

 

きっかけはある時。

雑誌で見た、ある男性の小説家の方が夜のビルの屋上でアーノルド・ローベルの『ふくろうくん』を読んでいる写真。

その光景に私の心は奪われた。

夜に、野外で、屋上で、男性が、絵本を、1人で読む。

という実生活においては絶対にこの上なく不自然なシチュエーションなのだけれど、私にとってはやっと巡り逢えた、ごく普通の何となくの、大人と絵本、だった。

肩の力が抜けていて、静かで、穏やかで、ひっそりと、硬く、楽しそうで、普通で、特別な感じ。

私はこういうのが好きで、こういう風にしていきたいのだなぁと気づけた。

大切にしていたものを手放さずに済んで本当に良かった。

 

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絵本は<書籍>におけるジャンルのある1つであるだけで、子供の個性や感性を育むためだけのモノではなく、単純に、全ての年齢や境遇の人が手に取れるモノでもある筈で、もっと自由に、ただただその人らしく読んで良いのだろうなぁ。

大切にされるうちに隔離されてしまった<絵本>に対して、いつの間にか読み手自身も<絵本を読む人>や<絵本の読み方>を限定してしまっている気もする。

 

 

「悪い子のための良い本(good books for bad children)」のフレーズで有名なアメリカの編集者アーシュラ・ノードストロム(Ursula Nordstrom、1910-1988)の書簡集『伝説の編集者ノードストロムの手紙』(編/レナード・S・マーカス、訳/児島なおみ、2010年、偕成社。『Dear Genius The Letters of Ursula Nordstrom』1998年)にあるエピソード。

 

「司書でもなく、教師でもなく、親でもなく、大卒でもない人が、子どもの本を出版する資格があるか。」

ニューヨーク公立図書館の権威ある児童室長アン・キャロル・ムーアのこの辛辣な質問に対して、ノードストロムも負けずに答えている。

「私はもと子どもでしたからね。そのことに関しては何一つ忘れていませんわ。」(P.25)

 

子供が触れるものに関して大人が丁寧で慎重であることは守りぬかねばならない姿勢であるけれど、多様性を排除してしまうことは自由と変化を生まないのだろうな。何事にもつきものの難しいところだとも思う。

 

 

さて。そして。

久しぶりにまた絵本と再会をした私は、ごく普通に何となく、けれど、楽しく本気で、読んでみることにしました。

子供には出来ない楽しみ方や本気をみせることこそが大人の醍醐味だと思うので。

 

 

        
2017.11.13 Monday

えほん遠野物語 ざしきわらし / 柳田国男:京極夏彦:町田尚子

『えほん遠野物語 ざしきわらし 』ブックデザイン・・・椎名麻美(Mami Shiina)

 

『えほん遠野物語』のシリーズはこの本を併せて全四冊が刊行されている。

文章は柳田國男の『遠野物語』が京極夏彦の筆によって現代語訳され、絵本用に類似エピソードを1つのお話にまとめたりもしている。

シリーズの他三冊…『やまびと』(絵 / 中川学)『まよいが』(絵 /近藤薫美子 )『かっぱ』(絵 /北原明日香)

 

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柳田國男(やなぎたくにお Kunio Yanagita、1875−1962、兵庫県生まれ)

民間伝承の会(1935年。のち日本民俗学会となる)を創始、雑誌「民間伝承」を刊行。

日本民俗学の基礎を築き独自の見解と立場からの研鑚を行う。

1951年に文化勲章受章。

 

京極夏彦(きょうごくなつひこ Natsuhiko Kyogoku、1963ー、北海道生まれ)

小説家。世界妖怪協会、全日本妖怪推進委員会肝煎。 古典遊戯研究会紙舞会員。お化け大學校・水木しげる学部教授。

『魍魎の匣』で第49回日本推理作家協会賞長編部門受賞(1996年)など、多く評価をされる。

『遠野物語remix』『遠野物語捨遺reloted』『えほん遠野物語』などにより遠野文化賞受賞(2016年)。

 

町田尚子(まちだなおこ Naoko Machida、1968−、東京都生まれ)

絵本の作品の他に挿画も手掛ける。

妖怪絵本『あずきとぎ』(文・京極夏彦/編・東雅夫、2015年、岩崎書店)、『ネコヅメのよる』(WAVE出版、2016年)など。

 

『遠野物語』(とおのものがたり TONO-MONOGATARI)

岩手県遠野地方に伝わる昔話や説話、伝承などをまとめたもの。遠野出身の佐々木喜善(ささき きぜん)を語り部として柳田國男がそれを筆記、編纂した。初版は明治43年(1910年)に350部の自費出版で刊行。

『後狩詞記』(1909年)『石神問答』(1910年)と併せ柳田國男の初期三部作といわれる。

 

 

因みに、この絵本のお話の元となる座敷わらしの記述は、『遠野物語』では十七〜二〇、『遠野物語remix』では B part 十七〜十九にあたる。

 

(*データは2017年現在のもの。以下も敬称略とさせて頂きます*)

 

 

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本編の感想の前に。敬意を表して、『遠野物語』について、思うままに何となく。

 

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『遠野物語』を初めて手にとったのは確か高校生の頃。色々なところで名著として紹介をされ、学校の授業などで取り上げられたりもしていたので興味を持ったのがきっかけだったような気がする。

けれど。途中にもいかない段階ですぐに挫折。それ以降時をおいてトライしてみても挫折を繰り返すばかりだった。

まず文章が古めかしくて何が書かれているか解らなかったし、現代語訳を読んでみても何が言いたいのか(面白いのか)全く解らなかった。研究記録のメモ書きのような、小説試作のアイディア帳のような…なんだかともかくよく解らなかった。

 

それでもなぜか興味がひくことはなく、何度もの挫折を繰り返しながらやがて読み通し、大人になった今では気が向くと手に取って読む常備本のうちの一冊となっている。色々な経験やささやかな学びから知らないうちに未知のものを愉しむ体力と胆力がついたのかな。

日本に生まれたこと、いること、日本人であること…<日本>という遥かなる繫がりに思いをはせるきっかけを与えてくれる一冊だと思う。

なんてね。こんなこと言ったらかつての私に"ナァーニワカッタヨウナコトイッテルノ?"って笑われてしまうだろうな。…うん、絶対に大笑いされそう。

 

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この絵本シリーズでとりあげられている山人(やまびと)やマヨヒガ(まよいが)、河童、座敷わらし、以外にも心に残るお話は沢山ある。私が特に好きなのはサムトの婆の話(八)。

本当に短いお話なのだけれど、人の生きる切なさが寄る辺なく、けれど颯爽と滋味深く描き出されていて、まるで短編映画を観たかのような気持ちになる。

 

恐ろしい話、美しい話、和やかな話…海や川を舞台にしたお話もあるのだが読んでいて思い出すのはやはり<山>。

土の匂い、風に揺れる草木の音、木々の隙間から見える空と刺し込む光、落ちて色濃く揺れる影、肌を撫でるひやりと湿度のある空気、歩く足元から伝わる大地の感触、耳の奥底から聞こえてくる自分の身体の内の音。。。

日常という下界から切り離され、時間と方位も失ったならば、もう 自分が解らなくなる。

 

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読むときはいつも気分次第で、順を追ったり、好きなお話を選んだり、開いたところをそのままに読んだりしているのだけれど、一番よく読んでいるのは<初版序文>かもしれない。作者の思いや作品の成り立ちなどを知ることができ、何度読んでも面白い。歴史という大きな時の流れの中にいる自分を意識させられる。

 

「思ふにこの類の書物は少なくも現在の流行にあらず。」としながらも「要するにこの書は現在の事実なり。単にこれのみをもつてするも立派なる存在理由ありと信ず。」と心を決める作者の目指す視座と視界は高く広く、そして遥かだ。

 

「願わくはこれを語りて平地人を戦慄せしめよ。」

 

広く知られる序文のこのフレーズと共に、献辞「此書を外国に在る人に呈す」に込められた作者の思いとその意図をぼんやりと考えてみる。のだけれど私にはまだその答えに手は届かず…。いつか知らないうちに気づくことが出来たら良いなぁと思いながら読み続けている。

 

過去と未来をつなぐ<今>という<時>をどれだけ自分の肌身で感じることが出来ているか。『遠野物語』は人々がいつの間にか失っていったものを呼び起こしながら、百年がたった今も読み手に読み手自身の<今>を問いかけているのかもしれない。

どうかこれからもこの作品が広く長く 沢山の人に愛され継がれてゆきますように。

 

さて。絵本へと。

 

 

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この絵本において座敷わらしのエピソードは二つある。

一話目は男の子の座敷わらし。二話目は二人の女の子の座敷わらし。

男の子と女の子二人は雰囲気のある妖艶な顔立ちで描かれており思わず見惚れてしまう。瞳の色が不思議な色合いで美しいのだけれど…私としては座敷わらしの瞳はごく普通で良かったかな。

山男(山人)のお話に書かれている「眼の色少し凄しと思はる。」(七)という箇所が印象的なので『遠野物語』において特別な瞳は山男こそのものであって欲しいのだなぁ、たぶん私は。

 

前半にインサートされている上空から見下ろした日本家屋の絵はおそらく、遠野地区に多く見られたという南部曲り家かな。いつか実際にみてみたい。

 

 

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町田作品を愉しみ眺めて(時に怖がり唸って)いつの頃からか感じ始めているのは、三角形が潜んでいる、ということ。

木の幹や扉や窓のサッシ、障子や建物の柱などの縦のラインにも目が行くのだけれど、<怖さ>が感じられる作品(ペエジ)にはどこかにきっと<三角形>が隠されている。

<三角形>とは、そのものズバリの三角形のモノではなく、三角形を作る構図であり、その構図とは、ラインによって描かれているのではなく、フォルムという存在まるごとによって描かれているのだ。

 

そのことに気づいてからはペエジごとに三角形を見つけることが楽しみになり、と同時に見つけた瞬間に目が合い見つけられてしまったかのような感覚が生まれて、実は怖さが更に深まっていってしまったりもする。

それは『ざしきわらし』で言えば、まず表紙の女の子の顔の輪郭や両肩、握り合わされた手。着物の合わせと帯揚げ。二人の間にある空間の形。

作中では、家の屋根や山、奥へと続いてゆく道や廊下、とぐろを巻く蛇や伸びをする猫、馬の顔から背中、下から仰ぎ見る植物たちや室内…など。

 

それ等は絵や風景としてごく普通に自然だから、一見するとはっきり<三角形>とは解りにくい。柔らかく穏やかに落ち着いた筆遣いで描かれている風景や情景をそのままに眺め、お話の世界に入り込んでいると、すぐにはきっと気が付かない。でも、潜んでいる。

何か違うなと、感じる。どこかが普通ではないなと、感じる。

不思議なお話だからかな、暗い色合いだからかな。だから何だか怖いのかな。。。

解らないけど 確かに 何かを 感じる。この感じが怖いのだ。

 

 

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上へ吸い込まれるような、下へ飲み込まれるような、予測不能な不安定感を感じさせる三角形。それは<結界>を創造しているのではないだろうか。

入ってはいけない、入れてはいけない世界。触ってはいけない、触られてはいけない存在。その禁は破られたが最後、それを侵し犯された人は元の場所にはもう決して、戻っては来られない。

そんな<結界>の暗示をいつの間にか植え付けてくる三角形がどのペエジにもサブリミナルに堂々と潜まされているので、いつの間にか読み手の心象に不安がひたひたと押し迫り、知らぬうちにじわじわと怖くなってゆくのかもしれない。

鮮やかな演出だと思う。

 

山深く、海の側、夕暮時、宵の口…、何てことはないごく普通の自然な日常の中でふと、見てしまい、見られてしまい、<何か>と合ってしまった…そんな人の姿が『遠野物語』には描かれている。

それは選ばれたものなのか望んだものなのか誰も知る由はないのだけれど、人はきっとその知る由もないものを必然または偶然と呼んで、それぞれの生き様を重ね、そして時に忘れて、物語を語り繋いで行くのだろう。

 

 

 

        
2017.10.05 Thursday

ムーン・ジャンパー / ジャニス・メイ・ユードリー:モーリス・センダック

ジャニス・メイ・ユードリー
偕成社
(2014-10-28)


 

オリジナル・・・ 『THE MOON JUMPERS』(1959年)

日本語訳 ・・・  谷川俊太郎 (Shuntaro Tanikawa)

日本語版装丁・・・ 中嶋香織  (Kaori Nakajima) 

 

コルデコット・オナー賞受賞。(1960年/Caldecott Medal/Honor)

 

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文・・・ ジャニス・メイ・ユードリー  ( Janis May Udry、1928ー、イリノイ州生まれ )

作家。主に子供向けの書籍の作品を執筆。

始めての絵本『木はいいなあ』(1976年、偕成社、『A TREE IS NICE』/illustrated by Marc Simont /1956年)でコルデコット賞受賞 (1957年)。

センダックとの共著は他に『きみなんかだいきらいさ』(1975年、冨山房、『LET'S BE ENEMIES』/1965年)がある。

 

 

絵・・・ モーリス・センダック (Maurice Sendak、1928-2012、ニューヨーク ブルックリン生まれ)

コミックやディスプレイなどの仕事をした後、子ども向けの書籍の作家・画家となる。

『かいじゅうたちのいるところ』(1975年、冨山房、『WHERE THE WILD THINGS ARE』/1963年)でコルデコット賞(1964年)。他にも国際アンデルセン賞(1970年)、ローラ・インガルス・ワイルダー賞(1983年)など多くの評価を受けている。

 

 

(*データは2017年10月現在のもの。以下も敬称略とさせて頂きます*)

 

 

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月を描いた絵本は沢山あると思うのだけれど、その中でもこの作品には特別な美しさがあって大好き。

設定は夏となっているのだけれど少しひんやりと涼しげな雰囲気と登場人物達の長袖姿もあってか、秋の始まったばかりの、この時期の夜にも似合う気がしている。

いつか原画が見てみたいし、内緒のお話を言ってしまえば・・・原画が欲しい。そのくらい好き。

(何となく照れくさいので、ここだけの 誰にも内緒にしてください。。。)

 

 

・・・・・・◆ 

 

ユードリーについては『木はいいなあ』がおそらくもっとも知られた作品かもしれない。<木>というものの存在を優しくじっくりと見つめた本で、私にとって何度も読み返してしまう絵本のうちの一冊。

この作品においてもユードリーは人物の心象描写はせず、淡々と情景の描写を重ねてゆく。柔らかな含みをもった文章が登場人物たちの心象を語らぬことによって読み手の心象をゆっくりと呼び起こしてゆく。。。その感じが何とも読んでいて気持ち良い。

 

文章により添うように、その世界を包み込むかのように描かれたセンダックの絵。センダックの作品には素敵な夜がたくさんあるけれど、この作品には特に夢のような不思議な色香が漂っている。

夜の芝生に裸足でたわむれる子供たちの姿は自由で、楽しげで、神々しいエネルギーに満ちあふれている。

きっと夜と、そして月が彼らをそうさせているのだろう。

 

 

みんな ジャンプする、とびあがる、

なんども なんども、たかく もっと たかく。

でも だれも、おつきさまに さわれない。

 

We jump and jump, over and over, and higher and higher.

But nobody ever has touched the moon.

 

 

全ての姿も音も光りもなくなる夜の、届かぬ彼方に輝く月。

 

 

とぐちから  かあさんがよぶ、「こどもたち、こどもたちったら」

でも ちがう、こどもたちなんかじゃない、ムーン・ジャンパーだ!

「じかんよ」と  かあさんが いう。

 

Mother calls from the door, " Children, oh children."

But we're not children, we're the Moon Jumpers!

" It's time," she says.

 

 

楽しい時間には終わりがあり、お月さまには手が届かない。それはつまらないし哀しいし時に辛い。

けれどそこには、終わりのある美しさや手に入れることの出来ない美しさ、がある。

「あしたのおひさま」のような、だからこそ、の美しさが。

 

私たちはきっと みんな ムーン・ジャンパーだ。

 

 

 

Where The Wild Things Are / Maurice Sendak (Tabula Rasa 2011.05.11)

 

 

 

        
2017.09.28 Thursday

ぼくはかわです / 植田 真

 

装丁・・・大島依提亜(Idea Oshima)

 

 

植田 真 (うえだ まこと Makoto Ueda、1973−、静岡県生まれ )

 

絵本の他に小説などの装画・挿絵、CDジャケットの作品など多数ある。

『マーガレットとクリスマスのおくりもの』(2007年、あかね書房)で第14回日本絵本賞受賞 ( 2008年/Japan Picturebook Award )。

 

 

植田 真 : HP  Makoto Ueda/official website  

 

 

(*データは2017年9月現在のもの。以下も敬称略とさせていただきます*)

 

 

◆ 

 

秋の夜長という言葉が好きなのだけれど、ここ最近の夜はこの絵本。

朝でも昼でも夕方でも似合うけれど、夜に読むのがきっと一番素敵ではないかと思う。

 

とある水辺の風景を時系列で描くという設定からユーリ・シュルビッツの『よあけ』をふと思い出したのだけれど、情景を第三者的に語る『よあけ』とは違い、この本は「ぼく」という「かわ」が語るお話だ。年齢の低い子供が楽しむならば、明るく柔らかい絵柄で「ぼく」という語り手がいてくれるこちらの方が自然とお話に入りやすいかもしれないな。

 

まずこの絵本は造りがとても可愛らしく<川>らしい。

カバーとなっている紙が艶つやコーティングされているので滑らかな手触りで気持ち良く、水のある場所のあのしっとりと絡みつく様な独特な空気感を連想させられる。

そして表紙を開くと、ぴかぴかと張りのある紙に描かれた水面が広がる。ツルッとした手触りが澄んだ流れを潔く表現している。

横長サイズの本なのでタイトルペエジをめくって左右に開ききると わっと横幅が増して、いっきに景色が広がり心は川のほとりへと導かれてゆく。。。

 

シンプルな言葉使いで語られるお話は「かわ」の何てことはない一日。手書き風の少しにじんだような雰囲気の文字で書かれたその一日は穏やかで大らかで優しい。

私が特に好きなのは、かわのぬしが現れる場面と、夕方の風が吹く場面。いつもめくると水が立ち上がる音や風がざわめく音が聞こえてくるような気持ちになる。

 

 

◆ 

 

この本は持つ手をなるべく遠く伸ばして声に出して読むのが好きだ。最初に手にしたときから、気づく間もなく、自然とそうしていた。遠目がきくとかお話や言葉が凝っているというような、いわゆる 読み聞かせ向きと感じたから ではない。目で読むのではなく声に出したくなって、誰かに届けたくなり自分に贈りたくなったからだ。

 

「ぼくはかわです」という言葉からはじまるのが良いなぁと思う。

それは留まる池や沼や湖ではなく、動かぬ木でもなく、流れゆく、生き物でない、「かわ」。

 

かわになったらどんな感じなのだろう。

人間どころか生き物でなくなって、固体どころか液体になって、小さいどころか大きく形のないものになって、止まることなくずっと動き続けるなんて…想像もできない自分を想像してみる。

誰かや何かが訪れて去って行き、光が刺し影が落ち、風が吹き雨が降り、雷が轟き雪が舞い・・・時と共に在りながら時と共に変わり続ける。なんて雄大で気の遠くなるような自分なのだろう。

 

だから私はこの本を声にだし隅々まで眺めてみたくなるのだろうな。読んでいる間は全身でそんな自分になれるから。

 

 

 

よあけ / ユリー・シュルビッツ (Tabula Rasa 2016.08.22)

 

 

        
2017.08.24 Thursday

しろさんとちびねこ / エリシャ・クーパー

エリシャ・クーパー
あすなろ書房
(2017-04-20)

 

 

オリジナル・・・『BIG CAT、little cat』(2017年)

日本語訳 ・・・ 椎名かおる(Kaoru Shina)

日本語版装丁・・・ 城所潤+岡本三恵(ジュン・キドコロ・デザイン / Jun Kidokoro Design)

(オリジナルの洋書は日本語版よりも縦横それぞれ約2兮腓いサイズ。)

 

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エリシャ・クーパー(Elisha Cooper, 1971ー、アメリカ・コネチカット州ニューヘイブン生まれ)

作家・イラストレーター。

イェール大学ではラグビー選手として過ごし、雑誌『ニューヨーカー』のアートディレクターを経て、『A Year In New York』(1995年)で作家としてデビュー。

『Dance!』(2001年)は NewYork Times の「Ten Best Illstrated」 に選ばれる。

 

最新作は『falling: A DAUGTER, A FATHER, AND JOURNEY BACK』(2017年)。『 crawling: FATHER'S FIRST YEAR』(2006年)に続くエッセイ集。この2冊では家族のことを中心に日常の風景が綴られており、娘のZoëの腎臓に癌が見つかったことも書かれている。

 

現在 日本語訳されている著作は他に3冊。

『ヘンリー』(新潮社/2000年、『henry』1999年)

『おやすみをいうまえに』(バベルプレス/2011年、『A GOOD NIGHT WALK』2005年)

『うみべのいえの犬 ホーマー』(徳間書店/2013年、『Homer』2012年)

 

 

Elisha Cooper : HP elishacooper official website

 

 

(*データは2017年8月現在のもの。以下も敬称略とさせて頂きます*)

 

 

・・・・・・

 

簡単にストーリーを。

ある日、ある家に飼われている1匹の白猫のところに新たに黒い子猫がやって来る。白猫は黒猫に生活の作法の色々を教え、2匹は仲良く楽しく過ごす。

やがて年老いた白猫は去り逝き、黒猫は残される。

そしてある日、1匹となった黒猫のところに白い子猫がやって来る。黒猫は白猫に生活の作法の色々を教え、2匹は仲良く楽しく過ごしていく・・・。

 

 

・・・・・・

 

本編の感想の前に少し余談。

初夏の頃、ふらり立ち寄った書店の新刊紹介で見かけた『しろさんとちびねこ』。作者と作品についての情報は全くなく、表紙の<外国の絵本>っぽい雰囲気と、何と言っても白猫の優しい表情に心ひかれて手にとった。

柔らかなタッチの絵とシンプルなデザイン、解りやすいストーリー構成。特別に強い主張を受ける感じではない…筈なのに。

何故か深く作者の個性を感じた。何というか…「ひっかかり」を感じた、と言うか。

私にしては珍しく、絵本で初見の作品を即買いした。

 

そしてそれから。読み重ねる愉しみをくれる作者(作品群)に出会えた感触を得ている。日本未刊行の作品群をまだ全部ちゃんと読めておらず&英語がよく解らずで感想が定まっていないのだけれど…<面白い>。

 

エリシャ・クーパー。私が知らなかっただけで著作はかなり多い。絵本と文章がメインの作品とあり、内容としては小さな子供と10代向けのお話やエッセイ、大人向けのエッセイ、など。

一見すると、穏やかで柔らかくて暖かくてごく普通の<絵本>らしい雰囲気なのだけれど、作者に独自の個性と身体性があり、読み手に<現在 いま>を問いかけてくる。

私個人の感想なのだけれど何となくジョン・グリーン(Jhon Green)を知った時の感触と似ていて、おそらくクーパーも<新しい書き手>なのではないかと思う。

んー、もっと他の作品も日本語訳してくれないかなぁ。。。

 

他の作品についても考察してみたいのだけれど、焦らずゆっくりと。今回はこの作品について。

 

さて。

 

 

・・・・・・

 

お話に入る前にまずは表紙。

『しろさんとちびねこ』のオリジナルタイトルは『BIG CAT, little cat』。

ごく普通に日本語にするならば、『大きいねこ、小さいねこ』という感じになるのだろうけれど、「BIG CAT」という大文字と「 little cat 」という小文字で書き分けられているというところに遊び心を感じる。(色も使い分けられていて、BIG CATは濃い青、 little catは薄い青。)

そして、2つ(2匹?)  の間にあるのが「〜と〜」という並列の意味を持つ「&」ではなく「 , 」であるというところに、作者の個性と作品に込められたメッセージを感じる。おそらく作者は2匹の猫のそれぞれを「命」として「個」として、あくまでも別個の存在としてフラットに見つめているのだろう。

 

そして、表表紙と裏表紙で大きい猫と小さい猫の色は入れ替わっている。この演出は見た目に美しいだけでなく、時が流れ命は繋がっていくということを解りやすく伝えてくれている。

 

 

・・・・・・

 

クーパーの作品は絵もお話もスケッチのようなさり気ない雰囲気なのだけれど、計算されたデザイン性が確かにある。

<デザイン>って、構図がキマッテいるとか造形が美しいとか色彩が素晴らしいとか…のビジュアル的な要素のことだけではないのだな、なんてクーパーの作品を読みながら改めて考えはじめている。(まだその途中。)

デザイン、というとビジュアル的な美しさの追及にばかり重点が置かれがちだけれど、それはただ単にビジュアルだから目に見えて解りやすいだけのことで、<それがあるべき姿>をトータルでイメージ・設計すること、をデザインと言うのだろうなぁ。。。

 

ただ美しいだけではなく、本当に美しいものとはきっと意識的にも無意識的にも<デザイン>が成されていて、その<あるべき姿>であるという<しっくり感>の様なものが生活や動作をラクにしたり人を感動させたりするのだと思う。

 

と同時に、だからこそ。その<あるべき姿>に<あるべきでない何か>をひそませることもまたデザインで…。

クーパーは<それ>を仕掛けることを意識している作家だと思う。あからさまにではなく、解る人には解るように、届けたい人に届くように…。私はそういうところに惹かれたのだろうな。

あるべきか、あるべきでないか。読み手の心のうちに <在る> というその一線が、<現在 いま>というこの一瞬が、浮かび上がってくる。

 

 

・・・・・・

 

では、お話のなかへ。

作中のものは全て濃紺に近い黒色の太く滑らかなラインで描かれ、写実的なタッチではない。猫たちと彼らが関わるモノ以外に描き込みはなく、背景の余白が大きく広がっている。

猫たちが日常を過ごす時の背景はごくシンプルな真っ白。なので2匹がぴったりと体を寄せてくつろぐシーン(作中3カット)の背景が黄色で表されているということはそのペエジ(ひととき)が特別であるということを自然と伝えてくる。ほわぁんと淡く、2つの命を包んで守るかのような優しい黄色。

 

そして原文では2匹それぞれを示す言葉が時が経つにつれて変わってくるのが面白い。

しろさんは最初は「a cat」なのだけれど、新しい猫が来てから、the cat→big cat→ the older cat と変わっていく。

ちびねこも最初は「a new cat」なのだけれど、2匹で暮らすようになってから、the new cat→ bigger cat→ the cat→ big cat と変わっていく。

1つの命が、何かとの関係によって成長し、時を経ることによって老いていき、そして新しい命へと託されてゆく、ということが猫を表す言葉の変化で巧く表現されている。

 

 

・・・・・・

 

しろさんがいなくなってからのちびねこを描いた2つのシーンが興味深い。この2シーンがおそらくこの作品のハイライトで私がこの本を購入した理由でありクーパーに興味をもったきっかけ。

 

この2シーンの背景にはグレーが使われている。白でもなく黄色でもない、明度と彩度の低い色であるということから、日常(白)や幸せ(黄色)をかき消すような暗い状況にいることが伝わってくる。

それを伝える文章。(P.22ー23、P24ー25)

 

かなしくて、

たまりません。

 

And that was hard.

For everyone.

 

 

・・・・・・

 

「And that was hard. For everyone.」。ただそのままに日本語とするならば、「そして そのことはつらかった。全てのもの達にとって。」とでもなるのだろうか。

 

この「And」(P.22)はおそらく意味をもって選ばれて配置されている。前のシーンからの流れの先に効果的に使われているのだ。(P.20 - P21)

 

なんねんも なんねんも、

2ひきは ずっと いっしょでした。

しろさんが いなくなるまでは……。

あるひ、しろさんは いなくなって、

もどっては きませんでした。

 

Years went byー

and more yeras, tooー

and every day the cats

were together.

until the older cat got older

and one day he had to go ...

and he didn't come back.

 

「and」で文章が繋がれることにより、日常(生活)という時が常に次へ次へ、先へ先へと進んで流れている様子が伝わってくる。

だけれど。しろさん(the older cat)が逝ってそしてもどってこなかったということは、残されたもの達にとって、そこから次や先へと簡単に行けるような出来事ではなかったのだ。

だからきっとこの次に続く文章は「and that was hard.」とは出来ず、「And that was hard.」という、今までと同じだけれど何かが違う「And / 繫がり」となったのだろう。

 

この「And」の「A」という大文字は、時を止めることは出来ないということと、時を断ち切るかのような出来事というものがあるということをさり気なく、けれどはっきりと表している。

そして、どんな何かが起こっても、時は and and・・・と進んでいくということをそのままに受け入れて生きて行こうとする作者の葛藤と心の強さも表れている気がする。

and で繋がってゆく時、とは別の言葉では<人生>と言えるかもしれない。

 

 

・・・・・・

 

「かなしくて」の次のペエジにある「たまりません。/ for everyone.」。

この1文があてがわれたシーン(P24ー25)は、初めてこの作品を本屋で立ち読んだ時は意味が解らず、そしてオリジナルを取り寄せた今も必ずここでペエジをめくる手が止まり気持ちが乱れる。

なぜ「for everyone」という言葉がどうしてこんなにも、皆とは離れた全くの<孤独>として私に響いてくるのだろう。

それはきっと、絵による絶妙な演出だ。

 

突然、今まで登場していなかった人間たちがシルエットとして出されることにより、2匹の猫たちは多くの存在に守られ愛されていたことや、残された猫も周りに誰かがいてくれるのならば孤独になることもないのだということが察せられる。

と同時に、顔を向け手をさしのべる人間たち(他者)のシルエットと猫の間にあるぽっかりと浮かんだ距離から、幸せな日常においては誰もが自分の好きなものしか目に入らないということや、困った時になってやっと周囲の暖かさに気づくということや、自分だけが哀しいのではないということなどもふいに見えてきて、「for everyone」という言葉のなかに「哀しい気持ちはみんな一緒だよ」というよりも「みんながそれぞれに哀しいんだよ」というメッセージを感じてしまう。

言葉と絵のギャップが心にひっかかり、見つからない答えをみつけようとして気持ちが乱されるのかもしれない。

 

日常や幸せと違って、なぜ哀しみは分かち合うことのできない、その人だけのものなのだろうか。

<時>とは一体何なのだろうか。。。

 

 

・・・・・・

 

そんなことに思いをめぐらさせてペエジを止めてみても、時が進むようにお話はまだ続いていて…突然、ごく自然と「ある日 /the day」がやってくる。「新しい猫」がやって来るのだ。

そして、新しい猫が呼び入れた新しくて懐かしい日々がはじまり…その様子を眺めていると、見つからない答えなんて見つからなくて良いのだと気づく。

 

この本の表紙の裏、見返し部分には薄いブルーの背景に水玉が綺麗に並んでいる。色は白と淡いブルーと濃いブルーで、大きさは大中小がバラバラと。可愛いデザインだなぁと思う。

それは何となく、遥か彼方からみた命の縮図のようで、宇宙の闇に1つ1つ まぁるく漂うその姿を、愛おしいなぁと思う。

 

 

 

 

 

「向こうは、とても綺麗だ。」/(Tabula Rasa 2012.12.27)
ぼくは願っている。 / (Tabula Rasa 2013.03.11)

さよならを待つふたりのために / ジョン・グリーン(Tabula Rasa 2014.10.17)
i will live. / with or without you / (Tabuka Rasa 2015.03.11) 

 

 

        
2017.05.12 Friday

宮沢賢治の鳥 / 国松俊英:舘野鴻

 

 

文…国松 俊英(くにまつ としひで Toshihide Kunimatsu、滋賀県生まれ)

童話、児童文学のほかにノンフィクション作品も執筆。宮沢賢治や鳥に関する研究を長く続けその著作も多数。

日本児童文学者協会、宮沢賢治学会、日本野鳥の会会員。

 

画…舘野 鴻 (たての ひろし Hiroshi Tateno、神奈川県生まれ)

昆虫をメインモチーフとした絵本のほかに生物画・装画も手掛ける。

 

 

宮沢 賢治 (みやざわ けんじ Kenji Miyazawa、1896−1933、岩手県生まれ)

 

(*データは2017年5月現在のもの。以下も敬称略とさせて頂きます*)

 

 

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宮沢賢治の鳥。

宮沢賢治<と>鳥 ではなく、宮沢賢治<の>鳥。

他の誰でもない<宮沢賢治>の、他の何ものでもない<鳥>の、本。

 

宮沢賢治の創作物には鳥がたくさん登場をするが、その数は「数えると70種類以上になる。」(P.3) らしい。この本においては賢治作品からの引用と共に10種の鳥がピックアップされ、凛と繊細な描写と雄大な構図による絵と、幅広く確かな知識による解説と興味深い考察(発見)の文章が添えられている。

 

質感というよりも質量が独特な一冊で、何となく本と自分との間合いのようなものが上手くとれず、さして分厚い本でもないのに時間を置きながら日にちをかけてゆっくりと読むこととなった。

それが良かったのかもしれない。手持ちの賢治作品群や絵本化されているもの、鳥類の図鑑、などを開きながらの、のんびり楽しい読書となった。

 

ようやっと読み終わり、この本の質量の独特感の理由を考えてふと思い当たったのは、この本が<絵>で描かれていて<宮沢賢治>に関する内容だから、ではないかということ。

 

 

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この本の鳥や風景が絵ではなく写真だったならば印象はきっと全く違った筈だ。宮沢賢治研究のビジュアル本として普通にみたと思う。絵だから、何だか不思議なのだ。

本物<みたい>だ、と感じる。羽の模様やその流れ、目玉の粘度と純度、くちばしの光沢、木々の肌や葉、星々の光り、雪の重み、空と雲の色と広がり…。

本物、みたい、だと思う。美しくて不思議で少し怖くなってくる。私が見ているこの鳥と風景は本物みたいな<絵>であってどこにも実在はしないのだ。在るとするならば… そこは  イーハトーヴ  だ。

 

それぞれの鳥についての解説と考察に「賢治がいた時代の日本」(p.6)と<宮沢賢治>を発見させられる。賢治がハチドリを知った経緯、モズとムクドリの違い、『よだかの星』の作品背景…。その事実にいきつくまでの推理と検証の経緯はスリリングで面白く、改めて賢治がいた時代とその空間を想像してみたりした。

おそらく、それ等のことを知らずとも解らずとも賢治の作品群の素晴らしさや面白さが損なわれたり激変をしたりする訳ではない。けれど、それを知ろう解ろうというその思いと行為が、作品の世界を広げ、深め、読み手を新たなる境地へと向かわせるのではないだろうか。賢治が創り出した空間… イーハトーヴへと。

 

 

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表紙も含めてどのペエジもそれぞれにとても好きなのだけれど、白鳥のペエジは開く度に息を飲み、わくわくとした緊張感を覚える。まるで白鳥の一群のなかで渡り鳥として飛んでいるかのような目線からの風景に包まれるからだ。そして、賢治の「白い鳥」の一節のひんやりとした喪失感と遠く広がる朝焼けの空の鮮やかさに何とも言えない気持ちになる。

 

ラストペエジに描かれた、たき火のそばで新聞紙を掛けて横になる賢治の絵は、誰も見たことのない<絵>で愉快な気持ちになる。そして最後に記された文章の「たくさんの童話や詩は、そんな日々に、草原を吹く風や夜空にかがやく星の光からもらったものだ。」(P.35)という箇所はおそらく賢治の「これらのわたくしのおはなしは、みんな林や野はらや鉄道線路やらで、虹や月あかりからもらってきたのです。」(『注文の多い料理店・序』)という言葉に呼応してのものだろう。

 

この、賢治の生前刊行唯一の童話集『注文の多い料理店』の序文はこうしてまとめて終えられている。

 

「けれども、わたくしは、これらのちひさなものがたりの幾きれかが、おしまひ、あなたのすきとほつたほんたうのたべものになることを、どんなにねがふかわかりません。」(大正十二年十二月二十日)

 

(『新修 宮沢賢治全集 第十三巻』筑摩書房、1980年初版。1991年第12版参照)

 

 

透き通った、本当の、食べ物。

美しく力強いイメージを感じるが、解るようでどこかよく解らない。賢治が思い描いたその「すきとほつたほんたうのたべもの」とは一体どのようなものやことを示すのだろう。

それが知りたくて解りたくて、私たちは作品を読み返し、賢治の足取りを追ってみる。例えばこの本で、羽の1本1本、葉の1枚1枚が描かれたように、文章の1語1語、事象の1つ1つが熟考されたように。

そして、賢治が何かを知りたくて解りたくて、野山を歩き、空を見上げ、音楽を奏で、文章を書いたように。

 

おそらく。何かを求め彷徨う人はやがて知らずと源流を目指し、流れをたどりながらもその流れに背いて進んで行くこととなる。そこで生じるエネルギーの濃さが、この本と、そして宮沢賢治の作品群の質量の独特さの所以ではないだろうか。

まれ出るそのエネルギーとはきっと、自らの身体を使い未知へと分け入ってゆく時の真空な至福感、だ。

 

 

 

 

しでむし:ぎふちょう / 舘野鴻(Tabula Rasa 2013.10.01)

つちはんみょう / 舘野鴻 (Tabula Rasa 2016.06.05)    

 

舘野鴻 画展 / 森岡書店 : 銀座(Tabula Rasa 2017.01.28)
 

 

 

        
2017.04.08 Saturday

こうまくん / きくち ちき

きくち ちき
大日本図書
(2016-03)

 

デザイン・・・大島依提亜(Idea Oshima)

 

きくち ちき(菊池知己  Chiki Kikuchi、1975−、北海道生まれ)

『しろねこくろねこ』(学研、2013年)でブラティスラヴァ世界絵本原画展の金のりんご賞受賞(Biennial of Illustrations Bratislava:Golden Apples)。

文章は他の作家でイラストのみのコラボレイト作品もある。

 

(*データは2017年4月現在のもの。以下も敬称略とさせて頂きます*)

 

 

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初めて読んだ作品が何であったかは忘れてしまったのだけど、手に取ったきっかけは今でもはっきり覚えている。

書店の棚に並ぶたくさんの絵本たちの背表紙のなかに偶然みかけた作者名「きくち ちき」。

文字の並びと音の響きが新鮮で書棚からその本を抜き取ったのだった。

本のタイトルや内容よりもまず作者の名前(文字)に記号的な興味をもって読みはじめるというのもちょっと変なのだけれど、何かに出会うきっかけなんて本当にささいな引っ掛かりやふとした偶然なのだなぁと思う。

以来、きくち作品は愉しく読み重ねている。

で。暖かくなって、花は咲き緑の繁るこれからの季節に読みたくなるのは『こうまくん』。

 

 

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この絵本にストーリーは特にない。こうまくんが表紙からラストペエジまでともかく走る。走り続ける。勢い余って途中ではもう転がりながら、走って走って走り抜けて行く。

ただそれだけの姿が何とも気持ち良い。

こうまくんが走る姿はともかく楽しそうで、あーいいなぁとこの絵本を読む度にいつも思う。そして何だか自分もともかく走りたくなってくる。

 

この本は造りが潔く元気で<こうまくん>っぽい。

まず、本の形。

ちょっと縦長で、そのシュッとした感じが馬の身体のラインや動きをイメージさせる。

 

そして紙の質。

サラッとつやつやとして滑りと手触りがよく、そしてかなり厚めで張りがある。

これがもしも質感をじっくり楽しむような手触りで張り感の柔らかい紙だったとしたら、この作品の印象はまた違ってくるのではないだろうか。

このサラつやっとした手触りと手応えのある張り感が読み手の気持ちを自然と駆り立てて、ペエジを次へ次へと、こうまくんの走るスピードに引き込ませてめくらせているのではないかと思う。

 

それから、文字の色と大きさ。

黒々とした平仮名がペエジに大きく配置され、それが こうまくんの逞しさと無垢さをシンプルに伝えてきている。

そして文字のサイズを良く見ると、ラストペエジに向かう前の3カットにあてられた文字が大きくなっていることがわかる。

このことによって、こうまくんの興奮がもう自分でも抑えきれないくらいに全身から溢れていることが力強く伝わってきて、読んでいて本当にただただ気持ち良い。

 

 

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繰り返される こうまくんの「 ぼく はしってるの 」という言葉は正直でとても可愛らしい。誰かの存在を求めつつも全てから放たれる快感に満ち溢れているから。

そういう こうまくんにとって、「見守る」や「応援する」「寄り添う」というような温度や湿度のあるスタンスではなく…、もちろんまずはそうでありたいけれどそれ以上に何というか…表紙に描かれているみんなみたいに「笑顔で放っておく」スタンスでありたいなぁと思う。

その人が子供であっても大人であっても、<夢中な人>にはもっと軽くもっと速く、どこまでも自由でいて欲しいから。

 

 

 

        
2017.03.30 Thursday

THE HIGHWAYMAN/ Alfred Noyes:Charles Keeping

Alfred Noyes
Oxford University Press
(1981-06-11)

 

『THE HIGHWAYMAN』(1981年)

ケイト・グリーナウェイ賞受賞。(Kate Greenaway Medal、1981年)

 

2013年に表紙の新しいNewEditionが発刊されたのだがそれについては未読。

私の手元には1995年版と2001年版のハードカバーがあり触った感触からして紙質が変えられていて、私は1995年版の色のグラデーション具合が好みかな。この作品もいつか原画が見てみたい。

 

<The Highwayman>は日本語にすると<追剥>(おいはぎ)となるらしい。追剥ぎとは、道すがらの人の物品を略奪する盗人のことをいう。

 

「The Highwayman」(1906年) はアルフレッド・ノイズによって書かれたバラッド形式の詩で、詩集 『 Forty Singing Seamen and Other Poems』(1907年)に収録されている。

「バラッド詩」(lterary ballad) とは、イギリスにおいて文字を持たない民衆によって歌い語り継がれてきた口承物語歌「バラッド」を詩人が模倣しはじめて生まれたものと言われている。

 

因みに、1995年にBBC(英国放送協会、The British Broadcasting Corporation )が行ったイギリスの好まれる詩(Britein's favorite poem)を選ぶ全国的な投票で「The Highwayman」は15番目に選ばれた。

 

 

文・・・アルフレッド・ノイズ (Alfred Noyes 、1880−1958、イギリス・ウルバーハンプトン  (Wolverhampton) 生まれ)

1914年から1923年までアメリカの大学で英文学を教え、第二次世界大戦中も主にカナダとアメリカで過ごす。1949年の失明を機にイギリスへ帰国。

 

絵・・・チャールズ・キーピング(Charles Keeping、1924-1988、イギリス・ランべス(Lambeth) 生まれ)

リーゼントストリート工芸学校で、リトグラフ、エッチングを学ぶ。『しあわせどおりのカナリヤ』(『Charley,Charlotte and the Golden Canary』、1967年)でケイト・グリーナウェイ賞受賞 など多くの作品が評価されている。

 

(*データは2017年3月現在のもの。以下も敬称略とさせていただきます*)

 

 

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本編の感想の前に何となく余談。

ここにおいては日本語版が発行されている書籍を選んでゆこうと考えていた。

だけれど。どうしてもこの作品をエントリさせたかったのでその気持ちに従うことに。

カッコいい絵本選手権があるならば、私は迷わずこの本を推します。

(そんな選手権は勿論ないのだけれど、あるのならば迷わずもう1冊推させて頂きます。)

 

この作品にケイト・グリーナウェイ賞が与えられていることを知った時、少し驚いて凄く憧れてしまった。日本ではちょっとあり得ないような気がしたから。

このような雰囲気の<絵本>が存在をして、賞という栄誉が与えられきちんと評価をされているという環境(意識)は素晴らしいなぁと思う。

ホラーなラブロマンスなので、残酷なカットがあるし後味は良くないし絵柄の個性も強いので、年齢の低い子供や好みではなさそうな人に勧めようとは全く思わない。けれどこういう、<絵の本>として表現が研がれた美しい作品はもっと広く読まれて欲しいと、単純に素直に願ってしまう。いつか日本語版も出版されればとても嬉しい。

 

<絵本>が、子供が初めて出会う本として、長文の書籍を楽しむ前段階の本として、家庭や幼稚園や学校で読み聞かされる本として、だけの書籍ではなく、<絵の本>という創作物としての開かれた評価をされることが日本でももっと普通になれば、子供も大人も読書の幅が広がって楽しいだろうな。思考の自由度が増す気がする。

 

この作品は日本語版がないので書店や図書館などで簡単に手に取れないだろうけれど、ネットにて画像検索をしてみればキーピングの挿画は直ぐにたくさん見ることが出来る。ノイズの詩についてもネット検索をしてみれば原文も日本語訳も簡単に拾い読むことができるだろう。

好みの人はきっとすぐに引き込まれる筈だ。(苦手な人もきっとすぐに苦手だとわかる筈。)

 

でもやっぱり。出来るならばこの作品は<本>でリアルに五感で味わって頂きたい。自分の手の内で、この作品の世界が動きざわめくことをぜひ体感して欲しいから。

 

 

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簡単にストーリーを。

ある夜。馬に乗った1人の男が宿屋を訪れる。男は追剥ぎ。戸が閉められた宿の窓に向かって口笛をふく。

彼を待っていた宿屋の美しい娘が窓を開けて顔をだす。窓際で馬に乗ったまま追剥ぎは娘に語る。

「今晩、盗みにいって夜明けまでにはここに戻ってくる。もし追手をうまくまけず1日かかってしまったとしたら、月明かりで私の姿を探しておくれ。必ず、月明かりの頃までには戻ってくるから。」

2人は口づけを交わそうとするが身体がうまく届かず、追剥ぎは娘の髪に口づけをして西へ向かって去ってゆく。

この2人の話をこっそりと聞いている別の男。彼もまた娘を愛していた。

 

夜が明け、朝となり昼となってもまだ追剥ぎは帰ってこない。やがてやって来たのは国王の兵士たち。彼らは娘を人質・おとりとして捕え、追剥ぎを仕留めようとしていたのだった。

月明かりの下、何者かがやってくる気配。いち早くその気配の主を確かに感じた娘は追剥ぎに危険を知らせるべく銃により自らの命を絶つ。

銃声により不穏な何かを察知した追剥ぎはその場を立ち去る。

そして時をおいてあの銃声は愛しい人が自分を救うために命を絶った音であったことを知る追剥ぎ。怒り狂い宿屋へと馬を駆けて戻る…。

 

さて。

 

 

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この作品は文章も絵もシンプルだけれどドラマティックだ。

詩という短い文章で、絵本という少ないボリュームで、ここまで濃厚なドラマと余韻を生み出しているということが凄いと思う。

 

まず文章。バラッド形式の詩によって書かれているので、文章による物語というよりも人の声によって語り継がれる昔話のような雰囲気があり、それがこの作品の不思議な浮遊感を生み出しているのかもしれない。

韻が踏まれ、音色が耳に残るような言葉が繰り返され、色彩が鮮やかに差し込まれ、詩の技巧の確かな駆使により柔らかくざらついた愛の物語を創り出している。

 

そして絵。白と黒とセピアを基調とした色使いで、ディテールは細やかに、フォルムは大胆に描かれている。人物や馬、風景・静物のラインや黒塗り部分以外に広がる淡くぼんやりとした彩色がまるでたちこめる霧のようで、物語の不気味さや哀しさを巧みに表現している。

 

登場人物たちの心中は文章で明確に示されてはいない。人物たちの身なりや顔色、状況を示すことによって淡々と書かれている。けれど絵によって人物たちの思いはまさに<見ての通り>だ。

描かれている娘の表情を見れば彼女が恋をしていることや愛しい人を守ろうとする意志の強さがはっきりと分かるし、追剥ぎが娘の前では紳士であろうとしていたことや彼女を奪われた時の怒りの激しさと絶望の深さも確かに伝わってくる。

 

 

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全体の造りというか、からくり、が素晴らしい。

詩としての型として、プロローグとエピローグがある。殆ど同じ文章で書かれており、それに相応して絵も同じカットが充てられている(見返しとタイトルペエジ(エンディングペエジ)を含めての計6カット)。

けれど、エピローグでは色彩が一転している。同じカットだけれど、白と黒が反転をするのだ。

プロローグでは白地に色彩の通常の世界が、物語を経て、エピローグにおいて一面の闇に白く浮かび上がる世界となる。まるでエックス線で浮き上がる、肉が消された骨を見せられるような。

同じ景色だけれど何もかもが違う世界…。不気味で鮮やかな演出だ。

 

そして、窓という小道具の使い方が心憎い。

この窓辺で2人は逢瀬を重ねたのだろうと想像をしてみる。

口笛によって呼び出すというのはおそらく2人だけの決めごとで、朝も昼も夜も、きっと娘はこの窓からみえる風景に愛しい人の姿を思い出し探し出し過ごしていたのだろう。そう思って見てみるとこの窓からの同じ構図のカットは素晴らしい。

木立ちと小道と浮かび上がる月だけで、娘の、時が過ぎても愛しい人が現れない不安や、兵士がやって来た時の恐ろしさ、やっと彼の姿を見つけた時の嬉しさと死への決意を描きだし、読み手は知らずと物語の展開に引き込まれていく。

 

 

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この作品の魅力は<絵の本>であることを充分に活かしきりながら紙という平面に収まらず、描かれた世界の時空を立体的に立ち上げてしまうような、力強さにあるだろう。

 

表紙があって、めくると見開きに広がる、白い余白に月を背に馬で駆ける追剥ぎ。

彼が向かう先を追ってめくり現れるのはタイトルペエジ。2つのハートのモチーフがある窓の木戸。その内には娘が待っており、彼の来訪によってそれは開けられる。

物語が終わって、同じように現れる色が反転した窓の木戸。ハートのモチーフは2つ変わらずに刻まれているがそれが開かれることは二度とない。その内に待つ人もそこを訪ねる人ももういないから。

 

けれど。窓の木戸を置いてめくり現れる裏表紙見返り。反転した闇の追剥ぎは月を背に馬で駆け続ける。愛しい人のもとへと。

そして。本を閉じてたどり着く裏表紙。

 

裏表紙のカットだけを見ても意味はなく、表紙からはじめて本編へ行き最後まで読み切ってこそ、この裏表紙の感動は待っていてくれる。

この展開が実はきっとこの絵本の1番の見せ場。詩には書かれていない情景。読み終わっていつもこの裏表紙を長く見つめてしまう。

 

キーピングの絵は、言葉に書かれていることを描き出すというよりも言葉に秘められていることを描き出して、読み手の心に深く消えない余韻を残していく。

娘の黒髪に編まれた深紅の恋結び(a dark red love-knot) は愛する人によってほどかれ2人の思いは叶えられるのだ。

反転された世界と 読み手の心の内で、何度も 永遠に、ペエジがめくられるごとに。

 

 

 

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 WORDSONG

     

 

 

        
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