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2017.02.20 Monday

金色機械 / 恒川光太郎

 

『金色機械』(2013年)

 

恒川光太郎(つねかわ こうたろう Kotaro Tsunekawa、1973−、東京生まれ、沖縄県在住)

 

『 夜市 』(2005年)で第12回日本ホラー小説大賞受賞。

本作は第67回日本推理作家協会賞受賞作。

 

 

装丁 … 関口清司 (Seiji Sekiguchi)

写真 … 村上キヨ (Kiyo Murakami)

 

(*以下も敬称略とさせていただきます*)

 

 

◆・・・・・・◆ 

 

簡単にあらすじ。

 

時は1747年の秋。大遊郭<しなの屋>の楼主である熊悟朗(くまごろう)のもとへ新しく入る遊女としてある1人の娘が面談にやって来る。名は遥香(はるか)。人の内側にある嘘と殺意が火花と黒い霧として見える熊悟朗は娘が入楼希望ではない別の理由で自分を訪ねて来たことを察しその理由を問う。

遥香は語りはじめる。自分の育て親、実の親、夫の話を。そして、熊悟朗の幼馴染、仲間たちの話を。

それ等の人物達の人生は金色様(きんいろさま)という人間ではないある不思議な存在を1本の糸として繋がり、織りなされ、やがてほどけてゆく。。。

 

 

◆・・・・・・◆ 

 

久しぶりに恒川作品を読む。独特の世界を楽しんだ。

初期作品の、読んでいて気持ちが悪くなるくらいに追い込んでくる感じがなくなっていることに物足りなさを感じたりもするのだけれど、その代わりに増している自然物の描写が美しい。例えば雪の情景や藪漕ぎの描写など、その空気の冷たさや草木のざわめき、土の匂いまでも伝わってくるかのようだった。

 

初めて『夜市』を読み終わった時のあの放心した感じは今でもよく覚えている。ホラー小説を読み重ねていた時期で、正にひき込まれた。以来、新刊を楽しみに読み進めていたのだけれど、ここ数年はあまり小説(フィクション)を読まなくなっていたのでこの作品は刊行さえ知らなかった。

先日、待ち合わせ前に書店をふらり散策中に見かけ、表紙に魅かれて手に取り読んでみた次第。

 

いつも読んでいて作品の世界に入り込むというよりも、その世界に取り囲まれているかのような感覚になり読後はどっと疲れ、そして何とも言えない達成感を感じる。で、今回もそんな感じ。

不可思議がごく自然に存在をしているけれど奇跡は決して起こらない。人が恐れを抱き強く希望を生きようをしている。…恒川作品から私はいつもそんな世界観を感じとっている。

 

 

◆・・・・・・◆ 

 

心に強く残り、しばらく反芻し続けるであろうラストフレーズ。

 

 

そして全てはほんとうの昔話となる。 (P.445)

 

 

「ほんとうの」「昔話となる」、ということはつまり、全てが<完全な過去>となり新たに<昔話として生き始める>ということだろう。そして、「なった」ではなく「なる」ということはまだそれは成されてはおらず、これから実現されるであろう、ということだ。

おそらく過去が<昔話として生き始める>には、現在が確かに機能をし、未来が描かれていなくてはならないのだ。

 

「ほんとうの昔話となる」ということは、現在という<今>を介して過去と未来がつながる瞬間なのではないだろうか。

 

 

テキモミカタモ、イズレハマジリアイ、ソノコラハムツミアイ、アラタナヨヲツクルデショウ。(P.366,373)

 

 

全てが、ほんとうに、つながって、解き放たれた世界。   見てみたい。

 

 

 

        
2016.06.17 Friday

鳥の会議 / 山下澄人

山下 澄人
河出書房新社
(2015-07-25)


*2編所収
「鳥の会議」
「鳥のらくご」

山下澄人(やました すみと Sumito Yamashita、1966−、兵庫県生まれ)

1996年より劇団FICTIONを主宰、作・演出・出演を兼ねる。
『緑のさる』(2012年、平凡社)で野間文芸新人賞受賞。


カバーデザイン・・・ 町口覚(Satoshi Machiguchi)
写真・・・ 石田浩亮 (Kousuke Ishida)

(*敬称略とさせて頂きました*)



◆・・・・・・◆

昨夜、久しぶりに小説を読んで久しぶりにのめり込んだ。
作者についてはうっすらとした情報、作品については全く知らずの状態だったのがまた良かったのだろう。
以下、ざっとした<私の感想>。



◆・・・・・・◆

主な登場人物は中学2年生の男子4人。篠田、神永、長田、三上。
不良というかはみ出し者というか、どうしようもないというか可愛いというか、手に負えないというか繊細というか、男の子だなぁというか馬鹿だなぁというか、投げやりというか必死というか、溜息がでてしまうような男の子たちが出てくる話だった。

ひとつの文章が長くなく、会話のテンポも軽快で、読んでいて気持ち良かった。平仮名表記が多く、段落の間の余白(空間)も効いていて、方言の温かみもあるからかシンプルで柔らかい印象を受けた。
けれど。その内容はべったりとヘヴィ。シーン設定(エピソード)がすぃっと、ふらっと、ぬるっと、ググッと、バシッと、ふいに変わる。何というか、不規則な螺旋の回り灯籠、みたいな感じ。(そんなモノ存在しないけれど。)
読み心地の良さに身体を預けつつも頭はリアルで攻めていかないと話を見失いそうで、読んでいてめちゃくちゃ楽しかった。

「鳥の会議」を昨日の夜の初めに読みはじめ、夜中に読了。あんまり好きだったのでまた読み返して明け方になり、日中は頭と胸の内で余韻を転がして過ごした。
それから夜になって「鳥のらくご」を読みはじめ、少し前に読了。これまたとても好きだった。明日きっと読み返す、ような気がする。



◆・・・・・・◆

「鳥の会議」の中で一番好きな箇所。
左目を既にヤラレていたぼく(篠田)が呼び出されフルボッコにされ、右目を更にヤラレて帰宅したシーン。



家に帰ったとき、父はいなかった。ぼくの目を見て母が
「今度は右か!」
と大きな声を出した。妹は寝ていた。ぼくはかすかにあいた左目の隙間で見ていた。 
                                                                                                   ( P.37)



どこが好きかというと、お母さんが「今度は右か!」って言うところ。
状況的には物哀しいシーンの筈であるのだけれど、困ったことに読む度に私はこの箇所で笑ってしまうのだ。
笑っちゃいけないよなーと思うのだけど、でもやっぱり可笑しい。
だって多分、ここの台詞は「どうした?」とか「大丈夫?!」「なにやってるんだ」「バカタレ」…など、色々と普通にイメージ出来るのだけれど、それがまさかの「今度は右か!」。(「またか」でもない。)
なんて意外。そして絶妙。「今度は鼻か!」「今度は腕か!」ってどんなことがあってもこのお母さんはただそのまんまに反応して息子を出迎えるような気がする。
”普通”ではない。でも愛と日常が迷いなく伝わってきてストンと安心してしまう。だから私はここでうっかり笑ってしまうのだと思う。
こういう、ハズしてインな感じって凄い好きだ。



◆・・・・・・◆

それにしても。私のあの頃の殺意や憎悪や純粋は何処にいってしまったのだろう。こうして生き抜いて動き暮らしている自分が不思議に思える。
読み終わってからずっとふわふわした気持ちとギッチリした脳。
他の作品もきっと読む、ような気がする。


                                                                                  
                                                                                            

        
2015.08.09 Sunday

水蜜桃 / 迷羊 stray sheep



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水蜜桃という言葉を知ったのは、高校生の頃に夏目漱石の『三四郎』を読んだ時だ。
迷羊 ストレイシープ という言葉を知ったのも、勿論『三四郎』。

あの頃の私に漱石が伝えたいことの一体なにが解ったのかなぁ。
ま、今だって同じか。。。


解っていたか解っていなかったかは結構どうでも良くて、大事なのは<出逢えた>ということなのかもしれない。
外国文学(翻訳もの)を愛読していた私が日本文学に傾倒するきっかけをくれたのは漱石だ。

十代のあの頃に漱石の作品に出逢えたということは私にとって本当にありがたいことだったとしみじみと思う。


すると男が、こう言った。
「熊本より東京は広い。東京より日本は広い。日本より・・・・・・」でちょっと切ったが、三四郎の顔を見ると耳を傾けている。
「日本より頭の中のほうが広いでしょう」と言った。
「囚われちゃだめだ。いくら日本のためを思ったってひいきの引き倒しになるばかりだ」
この言葉を聞いた時、三四郎は真実に熊本を出たような心持がした。同時に熊本にいた時の自分は非常に卑怯であったと悟った。

(岩波文庫版・P.21)



執筆されたのは明治四十一年(一九〇八年)。現代にも十分に通用する批評眼や探究心。改めて、焦点を射るその射的距離の長さが果てしない人だと思う。

それにしても 「あなたはよっぽど度胸のないかたですね」って名言だなぁ。
女の人って怖いね、もとい カッコいいね 笑。



 
        
2015.06.30 Tuesday

僕の存在にはあなたが : 月が綺麗ですね

 

 


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雨の季節になると夏目漱石の『それから』が必ず読みたくなってきて
いつの頃からか何となく、毎年この時期になると読んでいる。

主人公の代助が三千代に告白をするシーンがとても好きなのだけれど、
一昨日だったかな 読んでいてふと思った。
あー これが愛するということ なのではないかなぁ と。


「僕の存在にはあなたが必要だ。どうしても必要だ。僕はそれだけの事をあなたに話したいためにわざわざあなたを呼んだのです。」  

(「それから」夏目漱石 / P.237 岩波文庫 )



自分という「存在」にとって「あなた」が「どうしても」「必要」。

こんな理屈っぽい告白をされて嬉しいかどうかは凄ぉく疑問だけれど 笑、
でも、誰かや何かを愛するということはこういうことなのかな と思った。

僕には ではなくて「僕の存在には」となっているところが多分とても重要。
自分の感情や意志を越えた、シンプルで強い、淡々とした事実。
宇宙の存在としての法則の一部のような。

で、派生して思い出したのがネット都市伝説的な漱石のこぼれ話。
ある学生が「I LOVE YOU 」という英文を「私はあなたを愛しています」と訳したところ、
漱石が「日本人はそんなことは言わないから、月が綺麗ですね とでも訳しておきなさい」と言ったという…。
出典も明らかでないので、私は真偽が怪しいなーと思っているのだけれど、
でもそんな感じのこと漱石って意外と言いそうだし何より何か良い感じだしで、この話きらいじゃないのです。

紫陽花が美しいですね とか 今日は良いお天気ですね とかじゃなくて
月が綺麗ですね というのが良いんだなぁ きっと。
手の届かない美しいものを共に見つめる幸せ をイメージさせられるから。

今夜は曇り空。だけど

月がとても綺麗ですね。 

あゝ もうすぐ夜が明けてしまう。


 

 

 

        
2015.03.11 Wednesday

i will live. / with or without you

以下は私だけの雑感。挙げた2冊の感想、ではない。
今、ジョン・グリーン『ペーパータウン』についてまとめているのだけれど、そのエントリの前に、走り書きのようなこの雑感をエントリ。自分の為に。

まず、ふと『神様のボート』が読みたくなって久しぶりに再読。そしたら急に『アラスカを追いかけて』につながって今度はこちらも再読。

この2冊に関連はおそらく全く無い。私だけの連鎖。
なんだか、こたつの周りに色んなモノを置いてなるべく動かずに物事を済まそうとしている人みたいだな。


*『神様のボート』(江國香織)
かならず戻ってくると言っていなくなった男を待つ女、とその娘の話。
*『アラスカを追いかけて』(ジョン・グリーン / 訳・伊達 淳)
アラスカという名の少女の存在によって自分自身と出会い人生を歩きはじめる少年の話。

・・・・・・

一度会ったら、人は人をうしなわない。
たとえばあのひとと一緒にいることはできなくても、あのひとがここにいたらと想像することはできる。
あのひとがいたら何と言うか、あのひとがいたら、どうするか。それだけで私はずいぶんたすけられてきた。
それだけで私は勇気がわいて、ひとりでそれをすることができた。 (P.144)

これはあのひとのいない世界ではない。
歩きながら、私は考える。
あのひとと出会ったあとの世界だ。だから大丈夫。なにもかも大丈夫。
まるでBCとADみたいだけど、そう考えるとあのひとはやっぱり私の神様なのだろう。 (P.191)


(『神様のボート』より)

この箇所を読んで『アラスカを追いかけて』(以下、『アラスカ』と表記)を私は思い出したのだ。

(*因みに、B.C.=before Christ(キリストが生まれる前)、A.D=anno Domini(キリストの年代)の意味*)

・・・・・・

グリーンの描く作品は、登場人物はティーンエイジャーで、ストーリーは彼等の言動を中心に進められ、全体がとても<今>と<アメリカ>で満ち溢れている。(<アメリカ>の<YA作品>だから当然のこと。)
けれど、グリーンの作品群には中盤以降に<あるポイント>、<決定的なある出来事>、が必ずある。
『アラスカ』で言えばアラスカの失踪、『ペーパータウン』で言えばマーゴ捜索中の自動車横転事故、『さよならを待つ2人のために』で言えばガスが病いに捕まって以降。

そのポイント(出来事)を超えた途端、ストーリーは急に減速をし始め、登場人物達はそれまでの疾走感を奪われ、緩やかな速度で深みへと降下をはじめるのだ。
そして、ふいに放り出された先にある景色は、<今>からも<アメリカ>からも遠く離れた、一面の、ただの暗闇、だ。
その闇は、地底の闇ではなく宇宙の闇で、宙に浮いたような、永遠の無音。完全な真空。
結局、グリーンの描き出す世界は「今のアメリカの若者達の姿」ではなくて、そんな彼等の身体と生活を通して「人間の生死と宇宙」を描きたいのではないだろうか…、と私は思っていた。

で、グリーン作品での<決定的なある出来事>で一変する世界、と『神様のボート』の一節「まるでBCとADみたい」がふいに重なってから私の考え(感想)は補強されたと共に変化している。まだ変化の途中。


世界は変わったりしない。
ということを、あること(人)をきっかけに人は気がつく。ただそれだけなのだ。
その、あること(人)が何かが重要で、その瞬間からその人はまるで惑星のようにそれから離れられなくなる。
その周りを回る。ただ回り続けるのだ。何周も何周も1人きりで宇宙の闇の中を。
終わりのないループ、出口のないラビリンス。。。
けれどある時、人はその周期の中でやがて自らの<軌道>を見つける。
そして蘇生して、また新たに、大いなる何かの周りを永遠に回りはじめるのではないか。。。


・・・・・・

『アラスカ』のジジイ先生による宗教の授業ではないけれど、学生時代のある授業を思い出した。
その教授はクリスチャンでらっしゃった筈で、日本の文化や文学を語る時も時折西洋的だった。
前後は全く覚えていない。


「falling in love という言葉がありますね。いわゆる 恋に堕ちる というフレーズです。恋、というか愛でしょうか。さて、この言葉を考えてみると、人は愛に堕ちる、というわけですが、どこから堕ちるのかお分かりですか?
・・・それは、神の元です。人は誰かを愛することで、神の庇護から離れ人間の世界へと堕ちてゆかねばならないのです。つまり人を愛するというのはそういうことなのですよ。あなた達にはまだ分からないかもしれませんが。」


初めて『アラスカ』を読んだときに私はアラスカの「まっすぐに突っ切る」という言葉が好きになったのだけれど、
久しぶりに読んだ今、心に残ったのはカーネルの言葉だった。


色々あったっていうのに、いまだに俺はまっすぐに突っ切るっていうのが唯一の方法のように思えるんだ__
でも俺はラビリンスを選ぶよ。ラビリンスなんてクソッくらえだとは思うけど、俺はラビリンスを選ぶ。(p.297)

(『アラスカを追いかけて』より)       


因みにこのエントリタイトルはU2の「With Or Without You」の I can't live with or without you・・・
という、あの印象的なサビからちょっと拝借させて頂いたのだけれど、久しぶりにちゃんと聴いてみた。
Youという存在へ捧げられた破壊力のあるラヴソングだなぁ。ロックだね。
あなたがいてもいなくても、あなたを知ってしまった私はもう今のままでは生きていけない。




 
        
2014.10.26 Sunday

ぼくはやっぱり、自由になるために



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いずれにせよ、物語についてぼくが考えるのは以上のようなことだ。
傷ついているとき、かつての傷心の思い出が再びよみがえってくることがある。
自責の念にかられるときにはかつての罪悪感が、
あこがれやなつかしさに浸るときにはかつての憧憬や郷愁が。
ぼくたちの人生は何層にも重なっていて、
以前経験したことが、成し終えられ片が付いたものとしてではなく、
現在進行中の生き生きしたものとして後の体験の中に見いだされることもある。
ぼくにはそのことが充分理解できる。
にもかかわらず、ときにはそれが耐え難く思えるのだ。
ぼくはやっぱり、自由になるために物語を書いたのかもしれない。
自由にはけっして手が届かないとしても。



「朗読者」 ベルンハルト・シュリンク/著 
 松永美穂/訳
 新潮社・2000年初版・P.206

   (DER VORLESER / Bernhard Schlink / 1995)


           
        
2014.10.19 Sunday

さよならを待つふたりのために / ジョン・グリーン

原題・・・『The Fault in Our Stars』(2012年)
日本語訳・・・ 金原端人・竹内茜
日本版表紙イラスト・・・ 小林系

Jhon Green (ジョン・グリーン、1977ー)

インディアナ州生まれ。
デビュー作 『アラスカを追いかけて』(『Looking For Alaska』、2006年) でマイケル・L・プリンツ賞を受賞。
2作目『An Abundance Of Katherines』(2006年、未訳)ではプリンツ賞最終候補。
3作目となる『ペーパータウン』(『Paper Towns』、2008年)ではエドガー賞ヤングアダルト部門を受賞。(映画化決定。)
4作目である本作では、New York Times、 Wall Street Journal、 TIMEなどが2012年度のBestseller小説として選出している。
ジョシュ・ブーン監督(Josh Boone)により映画化。(日本公開は2015年2月予定。)

(*以下も敬称略とさせていただきます*)


・・・・・・ 

ジョン・グリーン。
私がここのところ1番気になっている作家。時間があるならばきちんと調べてまとめ上げてみたい作家。
出来れば逢ってみたい作家。(でも英語で会話なんてできないから見てるだけだなァ。。。)

グリーンを知ったきっかけは一昨年に『アラスカを追いかけて』(白水社、2006年)を偶然手にとったこと。(以下『アラスカ』と表記)
『アラスカ』を読んだとき、1ページ目の1行目からもうとっても好きな感じでぐっと引きこまれ、
読み終わったときには、というか読んでいる途中で既に「もっとこの人の作品を読んでみたい」と思った。

ユーモアがあって哲学的。← 簡単にいえばこんな感触。(私にはね。)
言い換えれば、シンプルで読みやすいけれど実はひねくれていて読みづらい。← だから面白い!(私にはね。)

けれど、一昨年の時点では『アラスカ』以降の作品は翻訳はされておらず、がっかり。そして、不思議で仕方なかった。
なぁーんでこんなに面白い作家の本がもっと日本で紹介されないのだろう・・・。
なので、『ペーパータウン』(岩波書店、2013年)と『さよならを待つふたりのために』(以下『さよなら』と表記)が刊行されたのは本当に嬉しかった。
(因みに私が一番好きなのは『ペーパータウン』。あーでも、『アラスカ』も大好きだな。)


ジョン・グリーンについて、『ペーパータウン』の<訳者あとがき>にはこう書かれている。(訳者・・・金原端人)


アメリカでは今までに、J・D・サリンジャー、スーザン・ヒントン、ポール・ジンデル、ロバート・コーミアなど、それまでとはまったく違う、新しい青春小説を書く作家がたまに現われてきた。
ジョン・グリーンもまちがいなくその中のひとりだと思う。
 (P.381)

私なりに簡単に言い換えてしまえば、グリーンは<新しさ>と<力>がある<現代の作家>といえるのではないか、ということになる。
因みに、『さよなら』の日本語以外の他の言語での出版は、オランダ、スペイン、デンマーク、フランス、ドイツ、ヘブライ、中国、ポルトガル、アイスランド、スウェーデン・・・・。(現在のところ。)
映画化されたからとはいえ凄いことだろうな、きっと。


・・・・・・ 

グリーンは描く作品だけではなく、その発表方法や読者へのアプローチ方法も<新しい>。
Facebook、Twitter、tumblr.、のアカウントを持ち、HPも開設、弟のハンク・グリーン(Hank Green)と共に「Vlogbrothers」として動画サイト(YouTube)に投稿をしたり、BookTour(新作に伴うサイン会みたいなもの)では歌やパペット劇やら盛り沢山なプログラムを組んだり、『さよなら』の刊行時には「本をオンライン予約してくれた人にはサインをする」と公約したり。。。
作品に対する読者からの質問にも結構具体的にガンガン答えたりもしている。

小説を書くという創造におさまらず、ここまで<発信>している小説家もそうはいないのではないだろうか。
なんかもう、面白いなぁを通り越して働き者だなぁと感心してしまう。
<自分のメッセージはどう伝えれば伝わるのか>を真剣に考えて、本気で実行している人なのかもしれない。そういうところもまた私にとってとても興味深い作家だ。


グリーンについて調べるのは発見があり面白い作業だけれど、データがともかく多くて英語力の弱い私には把握しきれない。なので、もう今回はこのくらいでおしまい。


前置きが長くなってしまったなー。しかも読んでからまとめの途中で放ってしまって、1年以上の月日を費やしてしまった・・・。
以下、『さよなら』について、いつもながらざっとした<私の感想>。



・・・・・・ 
 

の、前に。まずは簡単にストーリーを。
 

16歳のヘイゼル(Hazel)は甲状腺ガンが肺に転移して3年がたつ。手術と新しい治療法の奇跡により病気の進行(もしくは侵攻)は避けられたがミニカートに乗せた1キロの酸素ボンベを常にそばに置いて生活をしなければならない。
両親を心配させたくない彼女は親の薦めで、気乗りしない患者同志のサポートグループに通っている。


ある日、そこで17歳のオーガスタス(Augustus)と出逢う。彼は骨肉膿で1年半前に右足を失い今は片足が義足。
読書が好きで慎重なヘイゼルとバスケットが好きだった積極的なオーガスタス(以下、ガスと表記)。2人はごく自然な流れで恋に落ちる。
そして、2人にとって特別な小説『至高の痛み』(実在はしない)の作者を訪ねてオランダへ行ってみたり、2人だけの体験を共にしてゆく。。。

最後に、登場人物紹介をおまけで1人。
グリーン作品における主人公の友達はいつもながら独自な個性と重要な役割を担っている。
今回のベストフレンドはアイザック(Isaac)。目のガンで子供のころに右目を摘出。再発によって残っていた左目も失明の危機、手術が必要となる。
ガスとヘイゼルとアイザックの関係は、友達というかきっと「戦友」というのだろう。

さて。


・・・・・・ 

この作品でグリーンの作品を3作読んだことになるのだけれど、1番この『さよなら』が読みやすかったし、1番解りやすかった。
ただ、その読みやすさと解りやすさは、若い読者にはガツンときたりキュンと沁みたりするだろうけれど、大人である私にとっては物足りないというか、物足り過ぎというか。
好みの問題なのかもしれないけれど、本作は具体的なメッセージをギュウギュウに詰め込み過ぎかなという気がしてしまった。
でも、その饒舌さは裏を返せば、いわゆる難病ものにはしたくないというグリーンの意志と意欲の表れ、ともいえるだろう。

グリーンの作品において今まで分からなかったことや気になっていたことに対するヒントを見出すことができたので、この作品が読めてよかったと思っている。
実は私は「グリーンが描きたいことは生と死とそして宇宙だ」と勝手に確信していたので、本作ではっきりと「生」「死」「宇宙」がキーワードとして用いられていたから、心の内でひそかに小さなガッツポーズ。


・・・・・・ 

日本語でのタイトルは『さよならを待つふたりのために』となっているのだが、原題は『The Fault in Our Stars』。
英語や英米文学に詳しくない私には意味がよくわからない原題だったので、インタビュー記事やHPなどでのグリーンの話を調べてみた。
シェイクスピアによる戯曲『ジュリアス・シーザー』(『The Tragedy of Julius Caesar』、1599年?)から得たタイトルだそうだ。


“The fault, dear Brutus, is not in our stars / But in ourselves, that we are underlings.”
(第1幕第2場)


乱暴にまとめてしまえば、「運命はその人次第で変えられる」、ということになるのだけれど、それってどうなのかな? ってところをグリーンはこの作品で描いていてる。

特別に選ばれた人以外の多くの普通の人々にとってそれって当てはまるのかな? 
今のこの世の中で通用するのかな? 
という問題を提起してきているのだ。
おそらく、いま世界中で格差と貧困ははっきりと認識されている深い問題だろう。
若者達はそれを敏感に嗅ぎ取っている筈で、グリーンはそれをはっきりと意識させ、そして共有したいのだと思う。
もちろん、過去や永遠や真理についても語っているのだけれど。

ガスは美術館に所蔵されている絵画についてこう語る。


「(前略)所蔵品の中には死んだ人の絵がたくさんある。十字架にかけられたキリスト、首をつき刺された男、海や戦場で死んだ人たち、理想や信念のために命を捨てた大勢の人々。だけど、がんで死んだ子どもは、ひとりも、いない。ペストや天然痘や黄熱病とかで死んだ人も描かれていない。病気じゃ名誉の死にはならないからだ。絵にする意味はない。病気で死んでも自慢できない」(P.228)


美術館(芸術)という絶対的なものから密かに、けれど意図的に葬り去られるモチーフ。
それは、この世の中からドロップアウトさせられる弱者と似ている。
彼等の人生には「絵にする」ような<特別な>意味はないのだ。
けれど、じゃあ「絵にする意味」がある人や人生って一体なんなのだろう。

美術館に収まる所蔵品の数に限度があるように「意味のある」ものなんてきっと数は少なく、しかもそれ等の価値は素晴らしいものかもしれないけれど、絵がなくたって人は生きてゆける。
結局、絵が存在する意味だって本当はないのだ。



・・・・・・ 

私がこの作品において好きだったのはガスとヘイゼルのラブストーリーの部分で、2人の会話がとても良かった。
優しくて強がりで素敵な言葉が止まらないガスは結構私の好みです 笑。

ガスはことあるごとにヘイゼルの魅力を言葉にして彼女に伝える。
「君は自分のことに気を取られてわからないんだ。君みたいな子はほかにいない」(P.133)
と言って何気ない仕草や言葉の中にヘイゼルの魅力を見つけるガスの愛情はユーモアと誠意があって、若さの輝きに溢れている。
「君に傷つけれられるのは、おれの特権なんだから」(p.185) なんて若さゆえの格好良さをちりばめた素敵でドキッとするような褒め言葉がいろいろと出てきて、ガスは人を喜ばせ人をひきつけるカリスマ性がある人物なのだなー、ということがわかる。

と同時に、彼の語る言葉をより深くたどってみれば、ガスがただのヘイゼルではなく、今、自分の目の前にいるこの「ヘイゼル・グレイス」を見つめているからこそ生み出される言葉なのだと思い当る。
そして、彼のその独特なカリスマ性は、もともとの豊かで鋭い感性が
「上がりっぱなしのジェットコースターに乗った感じ」(P.18)の日々で更に研ぎ澄まされたことによって獲得されたのではないかと気づかされてしまう。

後半の彼の焦りと苦しさには本当に胸が締め付けられる。
ガスが言う
「自分がいた証を残したい(I want to leave a mark.)」(P.325)という願いはおそらく女性よりも男性に強い思いで、特に自我の目覚めたティーンエイジャーである彼にとってそれが自分には出来ない(許されていない)ないなんて、叫びたくなるほどの怒りと恐怖だろうな。。。

ガスが語るヘイゼルの魅力で私が一番好きなのはこのフレーズ。


ヘイゼルは面白いけど、意地悪なジョークは絶対に言わない。(P.327)
She is funny without ever being mean.


なんて尊くて強く優しい心なのだろう。
このフレーズがこの本で一番ともかく強く好き。

ガスは言う。

本当に勇敢な人はこれみよがしになにかしたりしない。なにもせずに、まわりに気づく。(P.326)

それに気づいたガスもまた「本当に勇敢な人」だ。
 

人間の悪意と、人間の優しさ。それとどう闘い、どう愛そうとするか。
私はきっとその答えが知りたくて、だから例えば本を読んでみたりする。
なので、それを解りやすくはっきりと解き明かそうとしてくれる作家が好きで、だから例えば私はグリーンに魅かれたのだと思う。

ガスの言葉でもう1つ好きなフレーズ。


この世界で生きる以上、傷つくかどうかは選べないんです。でも自分を傷つける人を選ぶことはできる。(P.327)
You don't get to choose if you get hurt in this world,old man,but you do have some say in who hurts you.


美術館に飾られなくても人々を魅了する美しさがあるように、歴史に名を刻まなくても人の心の深部に入り込む愛の力を人は有している、筈だ。

・・・・・・ 

好きなフレーズとは別に、好きなイメージを挙げるならば シャンパン だな。
「夜空の星をすべてボトルにおさめた」(P.172)ものを2人で飲んで以来、シャンパンはガスとヘイゼルにとって特別な飲み物となる。(未成年なのだけど。)

グラスの中で揺れるシャンパンのその光景はおそらく、ガスの言うところの<象徴>だ。
2人にとって
「一瞬で過ぎた、でもいつまでも続くかに思えた無限の幸せの時」(P.244)
と同時に、その象徴は実証でもある。
私たちの意志には関係無く、始まりがあるものの全てに終わりはある、ということの。

つまり、生と死。そして、宇宙。

幸せそうな色と香りの飲み物のなかで弾ける泡は本当にまるで夜空の星のようだ。
どの泡もみんな綺麗で、弾けて、そしてみんな消えてゆく。 
どの人もみんな生まれて、生きて、そしてみんな去り逝くように。
シャンパンやスパークリングワインを飲むたびに、きっと私はこの物語を思い出すのだろうな。
"Okay" という言葉と共に。 




「向こうは、とても綺麗だ。」/ 2012.12.27
ぼくは願っている。/2013.0311

i will live. / with or without you / 2015.03.11
 

        
2014.09.20 Saturday

碁を打つ女 / シャン・サ 

シャン・サ
早川書房
(2004-08-25)



原題・・・「La joeuse de go 」(2001年発表、オリジナルはフランス語)

日本語訳 ・・・ 平岡 敦
日本語版のブックデザイン・・・ 守先 正



シャン・サ(山颯・Shan Sa) 1972年、北京生まれ。
8歳で初めて書いた詩が中国の新聞に掲載され、11歳で詩集を出版、12歳で詩作で全中国大会の1位を受賞。1990年に渡仏。
1997年『天安門』でフランスで権威のあるゴンクール賞最優秀新人賞、1999年に『LES QUATRE VIES DU SAULE』でカゼス=リップ賞、2001年に『碁を打つ女』で‘高校生リセ 選ぶゴンクール賞‘を受賞。



高校生が選ぶゴンクール賞 若者に読書を啓発する目的で1998年から始まった文学賞。ゴンクール賞の最終候補作のなかから、全仏の高校生2000人が審議して最も優れた作品を選出するもの。 

(*以下も敬称略とさせていただきます*)


・・・・◆ 


まず、簡単にストーリーを。

1937年の満州。<千風>という作中の架空の街が舞台。
16歳を目前にした一人の中国人と娘と24歳の日本兵士の男が主人公。
2人は別々の場所で別々の人生を歩んできたのだが、やがて<千風>の広場で碁盤をはさんで出逢うこととなる。
娘は日常の全てからのがれるため、男は反抗日分子がいないかをさぐるスパイ活動のために碁を打つ。互いに相手の名前や素性など何も聞かず会話もなく、ただ碁盤をはさんで碁を打つ。
相手の手筋を追ううちに精神的な関係でつながれてゆく2人の運命は、戦局の激化によりうねりはじめる。。。



・・・・◆ 


この本は実は一気に読み終えて、かなぁ〜〜り前にエントリをたてたのだけれどまとめきれずにいた。
理由を正直に述べれば、日本と中国の戦争の話、だから。
フィクションであるのだけれど史実として難しい問題を孕んでいるので、これまた正直に述べれば、感想を表に出す必要は無いかな…という結論に至っていた。
けれどやっぱり印象に残る作品だったのでエントリさせたかった。だからその思いに従うことに。
(印象に残る作品だけれど好きな作品ではなく、表に出す必要のない部分は記さないのだけれど、あしからず。)

さて。


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作品は、16歳目前の中国人の娘である「わたし」の物語からはじまる。
そして24歳の日本人兵士である「私」の物語がはじまり、以降中国人の娘の「わたし」と日本人兵士の「私」の物語が交互に語られ、1つに編まれてゆく。

そして、やがて2人は満州の<千風>という架空の街にある広場で碁盤を挟んで出逢うこととなるのだが、ここにきて読者はこの小説の構造が、白い石を打つ中国人の娘と黒い石を打つ日本人兵士の「碁」をイメージしているということに気付かされる。

登場人物の設定や描写が丁寧で魅力的だ。
どの人物も他の人物を際立たせるために配置された<ツール>ではなく、それぞれがそれぞれの人格と人生をもって生きている<人間>として描かれ、命が吹き込まれている。
そうした<人間性>によって、娘と男友達との三角関係の狂おしさや、誰といても何をしても救われぬ兵士の心の闇が、読む者の頭と心に確かにあぶりだされてくるのだろう。

各々に独立をしつつも、他と共にいることで存在を確立している登場人物達のその様は、まるで碁盤に並べられた碁石のようだ。


ひとつの石が占める位置の意味は、ほかの石の動きによって刻々と変化する。石と石との関係はますます込み入り、変転し、決して予測どおりになることはない。(P.239)

石は出逢いすれ違いをしながらも交わることはない。交わるその時は、どちらかが征服をしどちらかが征服をされた時となる。


・・・・◆ 

原文はフランス語で書かれているらしいのだが、一体どういうスタイルの文章を書く人なのだろう。
フランス語で書いている、詩のたしなみがあるらしい、ということから考えてみても、文章や単語の長短や響き(韻)などにもきっと意識を張りめぐらせているのではないだろうか。

作者の日本の文化や歴史に対する関心と知識の幅の広さやその理解の深さには驚かされた。
特に主人公の日本人兵士を、関東大震災の記憶に苦しむという人物設定にしたことには唸らされた。救われない魂としての彼の苦しみが、解りやすくストレートに伝わってきて、しかも人物としての深みを与えたと思う。
この、フィクションと史実のないまぜ感こそが、この作品にドラマティックな躍動感を与えている重要な要素だろう。

ただ、日本の歌や俳句の引用などは芝居がかっている気がした。
オリエンタリズムの演出には効果的だとは思うが、日本人の私が読むにはいささか余計で不自然な演出に思えてしまったかなぁ…。
アジア圏でない人にとっては美しく感じるのかもしれないけれど、私の場合は海外の映画やドラマで、日本人ではないアジア系の役者さんが日本人を演じているのを見せられるような違和感を時折受けた。
少し、なのかもしれないけれど、やっぱり全く違うのだ。
(アジア系の役者さんの演技等が物足りないとかいうのでは勿論ない。)



・・・・◆ 

読んでいる最中や読み終わった後もまるで映画を見ている(見ていた)かのような気持ちにさせられるのは、この作品が映像を意識した文体や雰囲気を持っているからではなく、それぞれの文章がさながら詩のように有機的な余白を携えているからで、読者はその余白を満たそうとして知らずとイメージを喚起させられるのであろう。

美しい言葉が絶妙なタイミングで差し込まれている箇所がたくさんある。映像作品でいえばインサートカットという感じかな。
物語の本筋とは関係がないけれど、もしくはだからこそか、印象に残る。

私の中で特に一番印象に残ったのは作品のクライマックス間近、主人公の日本人兵士が遠地の戦場へと緊急移動をする際に列車に乗り込むシーン。
列車のドアを閉めたその時に突然、1人の上官に別れの挨拶をしていなかったことに気づく、という一節。
まったく普通の文章なのだけれど、そこにその文章があるか無いかでこのシーンは全く違ったものになると思う。


プラットホームの脇で、機関車が蒸気を吐き出している。部下を押しのけながら、私は急げと叫んだ。列車に乗り込み、ドアを閉める。そのとき突然、私は中村大尉に別れの挨拶をし忘れたことに気づいた。       (p.250)

読み終わった後にこのシーンがやけに心に残ったのはきっと、一瞬の忘れがたい光景やふとよぎる言葉こそが人を形づくっているのかもしれないと私が思っているからなのだろう。
そんな欠片を確かめたくて人は誰かを求めるのだろうか。
縫い込められたカルマを取り出すことは決して出来ないと知りながら。


 
        
2014.07.07 Monday

BOOK3 / you were only waiting for this moment to arise.



BOOK3-mitsuki.jpg


こんにちは。いかがお過ごしですか。

早速ですが・・・
やっと読み終わりました。
村上春樹『1Q84』のBOOK3。
2010年4月に刊行されているようなので、どうやら私は4年間この本を放置していたようです。
BOOK1が「最新書下ろし長編作品」として刊行されたのが2009年5月。
なので私においてこの作品は5年の時をもってやっと完結しました。
んー…、私らしいタイムラグ(笑)。

部屋の書棚に入っているのだからほんの数歩移動して手にとれば読めるというのに、
なんでだろーって自分でも不思議なくらい、
隠れるように誤魔化すようにこの本を読むことをさけていました。
話が完結されないままで気にはなっていたのだけれど、
村上春樹を読んだときにうける消耗感が怖かったのか、面倒くさくなっちゃったのか。。。

いま、私は考えなくてはいけないけど出来るならば考えたくない事柄を抱えています。
あ、文字(しかも活字)にしちゃうと凄く深刻な感じになってしまうけれど
そこまでではないのでご安心を。
で。
それにとりかかってばかりでは煮詰まるのだけれど逃げ出すことは出来ず(したくはなく)、
気晴らしにテレビを観たり音楽を聴いたりしてはみるものの、
やっぱりあまり効果なし。
気晴らしは気持ちが晴れている時でないと効かないものです。

不思議であって不思議ではないのだけれど、
あの夜、私は何の迷いもなく書棚のこの本を手にとった。
それからずっと読みふけり、翌日をかけて読破。
久しぶりにBad Trip的な、頭と身体とハートと記憶にグラグラとくる読書となりました。
読み終わった今ならばわかる。
私は、この本を2014年の7月4日の夜に読みたかったのだ。



人は自分のためには再生できないということなの。他の誰かのためにしかできない。

(『1Q84』BOOK3、村上春樹、新潮社、P.184)



 
        
2014.02.25 Tuesday

シスターズ・ブラザーズ / パトリック・デウィット

パトリック・デウィット
東京創元社
(2013-05-11)


原題・・・『The Sisters Brothers 』(2011年発表)
日本語訳・・・ 茂木健
日本語版装丁・・・ 中村聡
カバーイラスト・・・ Dan Stiles


Patrick  deWitt (パトリック・デウィット、1975年バンクーバー生まれ)

『Ablusions: Notes for Novel』でデビュー(2009年)。ニューヨークタイムズ紙の「
Editors’ Choice book」に選ばれる。

本作は英語圏で権威のあるブッカー賞の最終候補作となり、
カナダで最も権威のある
総督文学賞(Governor General's Literary Awards)など多数の賞を受賞。

 

 

(*以下も敬称略とさせていただきます*)

 

 


・・・◆・・・ 


簡単に あらすじを。

時は1851年。オレゴン・シティから話は始まる。
兄のチャーリーと弟のイーライによる「シスターズ兄弟」はその名を聞いただけで人々が恐れる凄腕で残忍な殺し屋(シスターズ、は彼等の苗字)。物語はイーライが語り手となって進められる。
2人は雇い主である「提督」からある1人の山師を消すことを依頼され、カリフォルニアに向かう。
彼等がその道中で出逢うもの、そしてその先で待ち受けていたものとは・・・。

以下、ざっとした<私の感想>。



・・・◆・・・ 

数日前に読み終えたところ。
書店をふーらふらしていたら、目をひくタイトルと目をひく表紙だったので手に取ってみた。作者についても作品についても全く知らない状態だったので本当に先が読めず、その意味でも久しぶりに面白い読書だった。
変な風に誤解されると困るのだけど、私はボロボロになっていく男の話がとても好きで(笑)、この話はその点でも好みだったかなー、なんて。(変な風ってどんな風なんだ??)

映画化も検討されているらしいけれど、もしも映画化されるならばどんな感じになるだろう。監督次第だろうけれど・・・コーエン兄弟とかが撮ったりしたらどうかなー、なんて色々と想像してみたりするのも楽しい。(川沿いの口笛のシーンなんて映像化したらきっと印象的だろうな。)


・・・◆・・・

デウィットの作品は今回はじめて読んだのだが、一体どういうスタイルの文章を書く人なのだろう。

おそらく、翻訳された文章からは捕えられない、もうちょっとふわっとした、<危うい空気感>がイーライの言動にはきっとあるのではないかなぁ。。。
その<危うさ>は、優しさともなれば激昂ともなる、
この作品の1番のキモ、だろう。

それによって、ラスト近くに提督と対峙するイーライの狂喜と狂気は作品後半の頂点となり、ラストの1行のイーライの独白はほろ苦さと柔らかさを含んで読む者の胸に余韻を残すこととなる。
けれど、翻訳でのイーライは話す言葉もしっかりしているし、チャーリーほどに賢くはないけれど、それなりに自分がある人物に私には思えた。
なぜだろう。

イーライのキャラクター設定にしては意志的な言葉が選ばれているように感じるからか、漢字が多くて硬く感じるのか。。。
こういうことは、読み手の好みや読書歴によっても印象は異なるだろうから何とも言いにくいな。


言葉(文章)の空気感って部分ではなくて全体でかもし出されるものだろうから、他の言語に置き換えられながらもいかにそのままを味わえるかっていうのはそもそも難しいことだといつも思う。

でもだからこそ、頭を絞って感覚を澄まして、手繰り寄せくぐり抜けて何かを得られた時は嬉しい。
こういう悦びが私にとって、翻訳ものを読む醍醐味なのかもしれない。



・・・◆・・・ 

この作品を読んで、不思議で面白いなぁと思ったのは、<匂い>について感じたこと。

私はこの物語を読んでいる最中ずっと<匂い>を感じていた。
「昔ってきっと常に匂ったんだろうなー。臭かったんだろうぁ・・・」と、しみじみと思ってしまったくらい。

人や馬の息や汗や血、食べ物、飲み物、汚物、町中の生活臭、木々や水、土や泥・・・ともかく至る所から匂いが漂ってくるように感じた。


でも、作中において<匂い>についての表現がある箇所は実は2箇所と少ない。まず1つはミントの歯磨き粉を「いい匂い」(P.40)と書いているというような、ごく普通の何てことのない表現。
読み終わって改めて確認をしてみて驚いてしまった。(ざっとした確認だけれど)


回数も少なく表現も何てことないのに嗅覚を喚起させられたのは、デウィットの情景の選び方と描写の的確さによるのだろう。
皿洗いやバーテンダーを経たという作者の経歴から勝手な推測をしてみれば、
飲食や金銭、男女のかけひきなど、<綺麗ごとではない><生活>の中に生きる人間の姿を知っている人だからこその視点と記憶が、その場に漂う空気(匂い)を活かす文章を創りださせているのかもしれない、なんて思った。
きっと、短編を書いても独特に素敵だろうな。



・・・◆・・・ 

この話の登場人物達はシスターズ兄弟を含めて、男も女も子供も大人も皆、日々を生き抜くことに精一杯だ。
彼等は今の生活や自分に満足してはいなくて、いつかどうにか良くなれば(楽になれば)と思いつつも、心の底では既に諦めていて今の生活や生まれた時からの自分から抜け出せるなんて思ってはいない。

<綺麗ごとではない><生活>に生きることを当然として生まれ育った彼等は、希望の持ち方や夢の実現の仕方を知らないのだ。
だから、思わぬ人のこの言葉にイーライとチャーリーの心は驚きと感動で打ちのめされたのだろう。



今日からわたしは生まれ変わり、新たな人生を歩みはじめる。わたしは、未来へ向かって前進してゆく。(P.205)


<生まれ変わり、><新たな人生>をはじめ、<未来>へ<前進>してゆく・・・。
この境地を知ってしまったイーライとチャーリーの見る景色はもう以前と同じではなくなってしまう。。。

やがて、あの危うい自我を持つイーライが、自らの智恵で「常に穏やかな心を保つにはどうすればよいか、おれは学ぶ必要がある。」(P.333)という<悟り>に思い至るのだが、それはもちろん簡単なことではない。
「ひとつの家族の血が、どこまで腐ってしまえるかについて」(P.16)考え苦しんでいる方が、楽ではないが実は簡単だからだ。
それを選んだ人間が、提督であり、メイフィールドであり、山師ウォームの父親であり、シスターズ兄弟の父親であろう。


・・・◆・・・◆ 


だから、物語最終章にある<匂い>について書かれたもう1つのフレーズ、「眠たげな石鹸の匂い」(P.348)は私の心に深く入り込む。
この<匂い>が、イーライとチャーリーを守ってくれはしないだろうかと。


嗅覚は五感の中でも特殊で、唯一大脳新皮質を経由せずにダイレクトに大脳辺縁系とつながっており、このことから、嗅覚は本能的な行動や感情などに直接結びつくことができ、記憶に定着しやすい感覚、と考えられている。(プルースト効果(現象)としても知られる。)
ならばもし、これからまたどんな危険と恐怖が訪れても、激情に走るのではなく、ふと、「眠たげな石鹸の匂い」を嗅いだり思い出し
たりすることが出来れば・・・。

「眠たげな石鹸の匂い」は歯磨き粉の匂いと同じように「いい匂い」ではあるけれど弱々しく頼りない。きっと嫌な臭いにすぐに簡単にかき消されてしまうだろう。
けれど、<その匂いの記憶>を消すことは誰にも出来ない筈だ。


だからもし、「眠たげな石鹸の匂い」によって、<自分が本当に行きたい場所へたどり着けた時の静かな満足感>の記憶をたどることが出来たならば、いつかきっとシスターズ兄弟は「静かで優しい心」(P.333)を本当に手に入れることが出来るのではないだろうか。。。

赦されざる者であり、フィクションであることも解ってはいるのに、彼等の休息を願わずにはいられない。
何故ならば、ボロボロになった者の魂にもいつの日かきっと安らぎが訪れるかもしれないと思わせてくれる話こそが、私は好きだから。




 

        
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